田久保という苗字の由来

By , 2016/03/11

昨年11月祖母と母の法事で帰省した際、厳木町天川のバス停「田久保」を家族全員で見に行ったのですが、IMG_20151103_074416
田久保という苗字は結構珍しく、発祥としては佐賀千葉県匝瑳市(そうさし)の限定された地域でしか見られません。

そこでこの「田久保」という苗字の由来を調べてみました。
まあ、田久保家以外の方々には興味が持てないことではありましょうが。

 

苗字「田久保」の由来

■もともとは「田窪」であった。

・伝承によれば田窪氏は伊予国(現愛媛県)豪族「越智(おち)氏(
小市国造)の一族で、その流れをくむ越智親孝が「伊予北条氏」を称し親孝の息子兼孝が同国浮穴群高井邑に住んで「高井」を称し、その孫孝房が「田窪」を称した。伊予国に分布する田窪氏の祖とされる。

・伊予北条氏から田窪氏までの系譜(日本の苗字七千傑から
田窪系譜
※日本の苗字七千傑のページでは「田窳」となっている。「」は「窪」の旧字。

■元寇で肥前へ

・鎌倉時代元寇襲来(1274年文永の役)の時、越智氏につながる「河野氏」一族が功名を挙げ、恩賞として肥前国に所領を得たが、その際河野一族につながる田窪氏も肥前に進出し、当時五ヶ山と呼ばれていた厳木天川の地に土着したものと推察される。

■「田窪」から「田久保」へ

・戦国時代厳木地区は松浦党の一員である獅子城の鶴田越前守の支配下にあり、その家臣の中に田窪甚五右衛門という侍大将がいたとされる。

・豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に秀吉の命に背いたため、松浦党最大の一族「波多氏」の岸岳城主波多三河守が文禄二年(1593年)知行(所領支配権)を没収され武士大名としての波多氏は滅亡したが、これに伴い鶴田氏など波多氏につながる一族はそれぞれ新たな道を選んだ。

・田窪一族も下野したり帰農したりするに際し、一族相謀って「田久保」への姓変えを一斉に行った可能性が高い。
今厳木の地に「田窪」姓は皆無である。

という字はくぼんだ土地やキズ、ゆがみといった意味があり、あまり良い字ではないので、もっといい意味の漢字である、久(ひさしい、永久)、保(たもつ、子供を保護する)に変換したのではないだろうか。
※愛媛県東温市田窪(たのくぼ)に「田窪駅」がある。

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