そばの歴史

By , 2010/08/06

そばの歴史

 その一

■ソバは遺跡から出土した植物死体を調べてみると、縄文時代にすでに栽培されていたと推定できるようです。 そして、文字に書かれた「そば」が最初に出てくるのは、続日本紀に記載された、養老六年(722年) の元正天皇の詔(みことのり)(右の画像)。  内容は、「今年の夏は雨が降らず、稲の苗が稔らなかった。そこで全国の国司に命じて、 百姓に、おそく実る稲や蕎麦(ソバ)及び大麦・小麦を植えさせ、その収穫を蓄え収めさせ、 凶年に備えさせよ。」 大昔から、特に干害に対する救荒作物として欠かせないものだったわけです。

■この詔から次の詔にでてくるのは839年で、その後は記録が途絶えているらしいのですが、 平安時代末期(12世紀)には少しずつ現れ、鎌倉末期(13世紀)にはそばの記載が多くなり、 年貢の対象にもなってくるようになったそうです。そして、そばの食文化が大きく花開いたのが江戸時代だったわけです。 (参考:「そば学大全」俣野敏子著:平凡社新書)

 

 

 

 

 

 

 その二

■右の絵は、歌川広重の名所江戸百景「虎ノ門外あふひ坂」 (葵坂あおいさか:現在の特許庁付近)。裸の男二人は葵坂下に 祀ってある金比羅様へ願掛けの寒行の最中です。屋台のそば屋が 二軒(二台?)、坂の途中の屋台は終夜の営業が終わりその疲 れを背中に漂わせながら帰途につくところでしょうか?

■「そば」は初期「そば切り」と呼ばれており、「そば切り」が文献 に最初に登場するのは、「慈性日記」(慈性は近江多賀 大社の社僧)で1614年(1574年長野木曽の定勝寺文書と云う説もあります)。 当時は、飯の重湯や豆腐を加えて捏ねていたようです。 つゆは味噌だれ。その後、朝鮮から渡来した僧が小麦を 加えることを伝えたとのこと。

■「二八そば」は18世紀のはじめに生まれた言葉で、 その由来は大きく二つある。ひとつはそばの値段説で、 二かけ八で十六文というもの。もうひとつが現在でも 使っているそば粉八割小麦粉二割の粉の混合比率説。

■今のような醤油ベースのつゆを使うようになったのも 江戸時代。ただし、醤油は上方から送られてくる「下り物」の 代表格のひとつでお酒よりも高価でした。そのせいかつけ汁 がチョットしか付かなかったようです。18世紀はじめに関東(銚子) でも醤油を造りはじめたが質が悪く「くだらない」の語源になったほど。 しかし、19世紀には品質も向上し関東産の醤油が大量に江戸 へ入るようになりました。

 

 

 

その三

■1702(元禄十五)年12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入りの 前に集結したのはそば屋だったそうです。右の絵は、討ち入りの準 備期間中、義士の一人がそば屋になり巷の情報を収集してい たが、討ち入りに備えあばら家住まいでも槍の猛稽古を怠らず にやっているところへ、夜鷹そば売の仲間が3杯もそばの差し入 れをしているところ。

■1860年(万延元年)には、江戸市中に3700軒あまりの そば屋がありました。当時の江戸の人口は約100万人、現在 の東京は1200万人で、そば屋は5000店ほど。いかに多く のそば屋があったかですね。

■そして、なぜこれほど多くのそば屋があり、そば食文化が 広まったのか?
理由は大きく3つ。
(1)外食の普及:田舎から独身者を中心に多くの人口 流入があり、彼らに手軽な食を提供する外食産業 (そば・うどん・寿司等)が盛んになりました。蕎麦はファスト フードのはしりだったのです。
(2)健康志向:当時精米した白米を食べるようになった ため、ビタミンB1の欠乏による脚気(江戸患いといった)が 流行っていましたが、そばを食べている人はその脚気にかから ないということで、こぞってそばを食べるようになりました。
(3)グルメ:最初は屋台で売るそばで庶民が主な利用者 だったが、そば食が広まり、キチンとお店を構えて高級な そばを出す処も出てきました。水戸黄門もそば好きだったと 言われるように大名も好んで食べるようになったようです。

というわけで、現在も江戸前のそば食文化が脈々と受け 継がれているのです。でも、「外食・健康・グルメ」今も一緒 ですね。 (参考:「そば学大全」俣野敏子著:平凡社新書)&日経ビジネス2005.12.12号P85漢方養生訓)

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