CBX1000・CB900F

バイクなのに6気筒で1000ccって何なのッて感じでしたよね。

このCBX1000、ボクの義母すなわち妻の母親が所有者で時々借りて乗っておりました。義母の前の所有者は職場の同僚でSITさん。

で、なぜ義母がこのバイクに乗っていたかという話。
ある40代の女性が大阪のとある町に住んでいたのですが、家は坂が多いところで自転車では大変なので原付バイクを使ったらこれが快適で、小型二輪免許を取得して125ccに乗ったらさらに快適で、中型二輪免許を取って400ccに乗ったらこれは別世界、もうとどまることを知らず大型限定解除するしかないと、その女性は鈴鹿サーキットのバイクのスクールに通うようになったのでした。そしてついに大阪門真の試験場で限定解除に合格したのでした。

そのころボクは鈴鹿サーキットに就職してオートバイ教習所の仕事をしていたのですが、もちろんその女性のことは同僚たちから聞いておりました。すごいおばさんがいると。
そしてなんとその女性の娘がボクが入社した翌年に同じ会社に入社し、同じ職場に配属され、数年後配偶者となったのですね。

しかも大阪の自宅を処分して両親は鈴鹿へ引っ越し、バイクをコンセプトにした喫茶店を開業したのでした。
鈴鹿に来た頃はCB750Kに乗っていたのですが、どうしてもCBX1000が欲しいとSITさんから譲り受けたのでした。

娘の方も母親が限定解除したわけですから私は中型でいいですというわけにはいかず、将来の夫に叱咤激励されながら限定解除したのでした。じゃあ大型バイクを買おうかということで知り合いのバイク屋さんがおすすめしたのがCB900F、輸出仕様ですね。いいバイクでした。これも本人はあんまりバイクが好きでは無いようでボクが良く乗りました。

喫茶店は「Windy」といって、お客様はやはりバイク好きの人達が沢山。ツーリングなどにも行きました。義母は2003年に義父は2009年に他界しました。一緒に住んでいた家が今はそば屋になっております。

8耐は現代のお伊勢参りだなどという著名な作家もいて、なんだか世の中がバイクに酔っていた時代だったような気がします。

ボクは流れでそのバイクの時代の最中にいたのですが妙に覚めていたのかも?

仕事でも三重県だけでなく全国の教習所の先生たちを指導する立場になったのですが、もちろんこれはボク個人の力ではなく鈴鹿サーキットという環境やブランドが可能にしたのであり、そういう意味では恵まれていたのでしょうね。

バイクに関する仕事では、子供たちを対象に将来のレーシングライダー育成を目的としたSRS・J(鈴鹿サーキットレーシングスクール・ジュニア)の立ち上げも担当しました。また別の機会に書きます。

running2回目

三冊の走る本を読んで、何となく6/21に普段着で2kmほど走ってみました。

これがまあ大変。10日ほど筋肉痛で身体がまともに動かない。
こんなにも鈍っていたのかとあきれはてました。

第二回目が昨日7/4。
一応走る格好をして3km走ってみました。
足元はTEVAのサンダル。指先がフリーで結構快適です。
神戸城の石垣の上から。

まあ歩いているのと変わらない超スロージョギングですが。
平均時速6km/h。
途中西条中央公園で裸足ランを1km。
やわらかい草(芝生)の上で気持ちいいです。

疲労の具合はかなりか改善されました。

さてどのくらい続きますことやら。

名護屋城の謎

2015年11月、祖母の33回忌、母の13回忌の法要で家族全員7人で帰省した際に、
鎮西町にある大望閣というホテル泊まりました。

そのホテルのすぐ近くに「名護屋城」があるのですが
地元東松浦で育ったにもかかわらずほとんど関心を持っていませんでした。

太閤秀吉が朝鮮出兵の前線基地として造ったお城で大したものではないだろう、ぐらいの認識でした。
翌日早く起きたので折角だからちょっと見てみようといってみてビックリ!
城の建物は当然全く残っていないのですが城郭の規模は想像以上で、オオこれはすごい!と天守閣跡まで一気に登ってみました。
そこには青木月斗の句碑が。
「太閤が睨みし海の霞かな」

また全国から集まった錚々たる戦国大名たち!徳川家康・前田利家・伊達政宗・長曾我部元親・藤堂高虎・石田三成等々オールスターじゃないか。

それ以来、名護屋城や文禄慶長の役に関心を持つようになっていろいろ本を読んだり、佐賀県立名護屋城博物館から資料を取り寄せたりしているうちに、なぜ名護屋にお城を建てたんだろう?という疑問がフツフツとわいてきたのでした。
いくら壱岐対馬に近いといってもあんな片田舎で立地条件も悪いし、全国から100以上の戦国大名たちが陣を構えるには地形が良いとは言えないし、博多という良港があったのに、などなど。

でつい最近三重県立図書館でこの本を見つけたのでした。著者の原口さんは唐津の中学校などで社会の先生をされていた方で鎮西町史などの編纂委員も歴任されています。先日鎮西町教育委員会に問い合わせたら4年ほど前に他界されておりました。

原口さんは、19歳から17年間唐津で過ごした博多商人で茶人の「神屋宗湛」の茶会記をもとに状況証拠を固め、「神屋宗湛」こそが秀吉に名護屋を薦めた張本人であると推測されています。

また波多氏の改易の経緯についても興味深い推測をされております。
波多氏改易については我が田久保家の先祖もその影響をうけておりもう少し詳しく知りたいところです。

下の資料はこれからのたのしみ。時間はあります。

TLR200

1983年に発売されたTLR200

公道も走ることのできる本格的なトライアルマシンです。

バイクに囲まれた環境で時代の流れもあり、MFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)のライセンスを取得し、本格的にトライアル競技に参加したのでした。

この写真は鈴鹿サーキットにあったトライアル場で競技に参加しているところ。
F1誘致などに伴う造成で今はなくなりました。レーシングカート場になっているあたりです。

1983年に東京の多摩テックで日本で初めてのスタジアムトライアルが開催されました。ボクも職場の先輩たちと観戦に行ったのですが、当時の多摩テック業務課長KNSGさんの依頼で、同じ会社ということもあり急遽競技役員として手伝う羽目に。まあ、間近で世界最高のテクニックを見ることができてラッキーでしたけどね。
多摩テックは2009年9月30日閉園しました。

写真は世界トライアル選手権チャンピオンでホンダワークスライダーのエディ・ルジャーン選手。バイクでバックしたり空中で180度向きを変えたり、もう想像を超えたテクニックに驚愕しました。

トライアル競技には2年ほど参加していましたが、競技中に1mくらいの段差から降りるときに衝撃でムチ打ち的な損傷をおって頸椎を痛め、競技からは遠ざかってしまいました。

でも、最近ボクより3歳上の知り合いのバイク屋さんがトライアルにはまっているらしく、すこしムズムズしているのです。

HAWKⅡ・CBX400F

1980年1月に二輪教習係へ異動。

以来11年にわたって二輪教習業務に携わりました。

法的には「指定自動車教習所」。
道路交通法第99条に規定されており、法の基準に適合したら本来各公安委員会で受ける技能試験を教習所の検定でOKとするよ、という制度です。なので結構お堅いお仕事でした。

指定の基準に、指定前の教習で教えた教習生に県の試験場での技能試験を受けさせ、初回合格率95%を達成する必要がありました。20人で19人合格ですよ!結構苦労しました。

1982年3月17日に晴れて三重県公安委員会指定「鈴鹿モーターサイクルスクール」は発足したのでした。
そのころ二輪専門指定教習所は全国でも数えるほどしかなく、空前のオートバイブームもあって忙しかったですね。
また、指導員になるための試験や教習に必要な知識を得るために学生時代より勉強しました。

その当時使っていた中型教習車両がホークⅡCB400T。二気筒エンジン、アップハンドルで教習車両としては適していましたが人気はいまいちだったようです。
下の写真は指定後技能教習中の写真で、青いゼッケンの教習生がホークⅡ、先導でボクが乗っているのはCB750Kです。

指定を取ってすぐに教習車両はCBX400Fに。下は教習生募集のチラシで、20代後半のボクと教習生モデルはその年の鈴鹿サーキットレースクイーンだったMMさんです。

指定前2年、技能・学科指導員として3年、技能検定員として6年で合計11年間の卒業者数は約15,000人。
当時、特に鈴鹿市内ではどこに行っても卒業生に会うわけで複雑な感じでした。

1989年4月には教習係の係長と副管理者に。管理者というのは法に適合した管理をする者で警察OBが天下りするのが普通です。その管理者の補佐です。

1991年2月にようやくお堅いお勤めから解放され、交通教育センター業務全般を担う比較的自由な役職へ異動になったのでした。

その後2003年に交通教育センター所長になったのですが教習所の設置者(経営責任者という立場です)も兼任したので、指定教習所の一通りの仕事を経験させてもらいました。

残念ながらこの二輪教習所は2009年9月で営業を終了してしまいました。

走るための本三冊

かねてから走りたいと思っているのですが、行動に移せないでおります。

なにごともまずマニュアルから入る癖のあるボクはこの三冊を読んで、
今度こそと脳内の準備は完全に整っております。

しかし、身体は別であることは論をまたないのであります。

 

「ランニングする前に読む本」

ボクにとってのベストオブランニングマニュアルです。

BLUE BACKSだけあって理論と実践、生理学、メカニズムまで解説してあります。
・スロージョギング(にこにこペース)
・フォアフット着地
・スポーツカーと同じく軽量化が一番効果的
あたりがポイント。

 

「走って治すぞ、ガン闘病。」

口腔外科大学教授のガン闘病記ですが、市民マラソンが趣味のこの方はガン手術の二日前にもハーフマラソンを走ってしまうんです。でもその走りで鍛えた身体と精神力でガンと正面から闘うのです。ある意味カッコいい。患者になって初めて気づいたことや弱気になったことなども正直に書いてあります。

ボクも脱サラして2005年そば屋を開業して一か月目に血尿が出て受診したら膀胱ガンに罹患していて、その後2006年、2016年と三回ガン切除手術を経験しています。幸い内視鏡手術なので膀胱切除まではいっていませんが、妻の亡母が膀胱ガンで膀胱を摘出し膀胱ストーマ(人工的に外部に尿を溜めるパウチをつける)にしました。他人ごとではないのです。

この教授は大腸ガンや転移した肝臓ガン手術の後、人工肛門ストーマにしてパウチをつけたままフルマラソンを完走するのです!
いやいやボクだったら絶対無理とあきらめていたと思いますが、今その事実を知ったら逃げるわけは行きません。まして、内視鏡手術で済んでいるのだから、走らないわけにはいきませんよね、山本先生。

実はボクには、幼稚園から高校まで同級で、北大歯学部に入り現在佐賀市内で歯科医院をしている友人がいます。還暦同窓会で会った時に「そういえば、なして歯科医になったと?」と今更の質問をしたら、中学の時大学病院で口腔外科の先生を知り、自分もなりたいと思ってそれに向かって努力したそうです。中高大のころはそんなことはつゆ知らず、ボクは能天気な学生生活を送っていたのでした。

あと山本先生は「自らの生きざまを書き記してほしい。文字で記録されなければ存在そのものがなかったことになる。文献史学では史料に名前や事績が残らなければ不詳とされてしまう。文字で記録されなければ、人生や存在そのものがなかったとされてしまう。」と書いておられます。そしてこの本を書く時に担当者に「晒し者になってください。」と言われたそうです。もう一度ブログを書いてみようという気に大いにさせていただきました。

ストーマ等については「日本オストミー協会」をご参照ください。

 

「BORN TO RUN 走るために生まれた」

著者がランニングで足を痛めることが多く、なぜなのかを追求していくうちに、走るために生まれた人々「走る民族タラウマラ族」を見つけ出し、ベアフットランニングやトレイルランニングという自然な走る理論を発見し、人は走るために生まれたれたのだ、と確信するお話。

このサイトの解説がよかったです。

bear bore born アレ?裸足のベアはと辞書を引くとbareでした。

告白します。ボクもベアフットランナーだったんです。下の写真は高校三年の時の体育祭。運動場を使った2000mくらいの長距離走でトップを走っているボクは裸足なんです。結果は後の友達で陸上部だったボーヤに抜かれ二位でゴール。
昔のことでボクの27.5cmの足にあうシューズがなくやむなく裸足だったのですが。

蛮族の歴史

「イギリス、フランス、ロシア、中国といった国々は蛮族の侵入によって生まれた。」ではじまるこの本は、蛮族(侵略者)たちによってこの世界は形づくられたのだということをローマ帝国の滅亡から紐解いていきます。

最近世界史を再学習しているのですが、そういう見方があるのかと目からうろこですね。

ローマを滅ぼしたゴート族、そのゴート族を苦しめたフン族、ヨーロッパを席巻したゲルマン族、そのヨーロッパを震撼させたバイキング、そしてユーラシア大陸のほとんどを支配したチンギス・ハーンを祖とする最強の蛮族モンゴル人。

この本を読んでいると、北の方の寒くて気候が厳しい人達は獰猛というか残虐というか、人を殺すこと他人のものを掠奪することをなんとも思わないというか、それが正義(当たり前のこと)なのでしょうね。やはり風土が人を形づくるのでしょう。四季と豊かな水、大陸を隔てる海に恵まれたわが国はどんな人々を生んだのでしょうか?

そういえば和辻哲郎著「風土」を古本で買ったまままだ読んでいませんでした。さっそく読まなきゃ。

わが日本はモンゴルに二度攻められましたが、お天気にも恵まれ何とかしのぎました。むかしは異国人を南蛮人とよんでいましたし、もともとチャイナの中華思想によれば自分たち以外の四方は北荻・東夷・南蛮・西戎とさげすんでいたのです。

英語Barbarianの語源はギリシャ人が他民族を「聞きづらいわけのわからない言葉を話す者=バルバロイ」と呼んだことからはじまったとか。バルバルバルと聞こえたんでしょうね。

でもこの蛮族という定義そのものがおかしいわけで、ギリシャ人も他民族から見ればバルバロイですよね。

アマゾンプライムTVで「VIKINGS」と「The Bridge(北欧ミステリー)」を見ているのですが歴史的背景などをある程度分かってみるとまた趣がちがいます。

XL250S

就職してはじめて買ったバイクがXL250Sです。

実は大学5年(留年したのです)の時、まだ就職先は決まっていなかったのですがナナハンとこのXL250Sを買うことを決めていました。配属先がバイクに嫌というほど乗れる環境でしたのでナナハンはやめてXLだけにしました。

1978年に新発売されたのですが、フロントが23インチの大径タイヤで不整地の走破性に優れたいいバイクでしたね。

就職した夏に山中湖で合宿していた現役自動車部の陣中見舞いにこのバイクで行ったのですが、いい気になって湖畔を走っていて深い穴に落ちてしまい膝をけがしたことがありました。鈴鹿に戻って外科に行ったら麻酔なしで3~4針縫われる羽目になりました。その年の年末佐賀に帰省する時にも乗って帰りました。大阪から北九州まではフェリーですが。

当時は鈴鹿サーキットにモトクロス場があり、そこで早朝、不整地でのスライドコントロールやジャンプのテクニックを習得するための自主練習をしたものです。

またツーリングにも何回か行きました。下の写真は入社した年に職場の先輩たちと北陸方面へ林道主体のツーリングに行った時のショットです。

4年ぐらい乗って次はトライアルバイクに乗り替えました。
トライアルについては別の機会に書きます。

CB750P・CBX750P・VFR750P

前回白バイの話でしたから引続き同じテーマで。

白バイの訓練で使っていたのは
1977~CB750P、1988~CBX750P、1989~VFR750Pです。
入社したときはCB750Pを訓練で使っていましたが一番乗りやすかったのはVFR750Pですね。

三重県警交通機動隊発足20周年記念のテレカにその三台が写っています。
下からCB750P、CBX750P、VFR750P

全国白バイ安全運転競技大会は1969年第一回から鈴鹿サーキットで開催しており、警視庁や大阪府警、愛知県警、三重県警など全国の精鋭の白バイ隊員たちが鈴鹿へ特別訓練に来ていました。

ボクは二輪教習係へ異動し白バイ研修を担当することはありませんでしたが、オートバイのライディングテクニックは向上する必要はあります。そこで、特別訓練白バイ隊員たちと一緒によく走りました。おもにスラロームが多かったですね。
ボクの訓練は空いている時間に勝手に割り込むだけで強制されたものではなく、結構楽しくやっておりました。

下の動画は2016年白バイ大会のスラローム競技の模様です。

1988年にはまだ二輪教習係だったのですが、役職に就いたこともあり白バイ大会の主任審判(各競技ごとの審判責任者)に任命されました。主催は警察庁なんですが運営主体はホンダ安全運転普及本部・鈴鹿サーキット交通教育センターで双方から審判を出していたのです。
1988年第20回から1993年第25回大会まで6回主任審判を務めました。

白バイ大会の競技は、①車両点検 ②速度感覚・目測測定 ③バランス走行 ④オフロード走行 ⑤トライアル走行 ⑥スラローム走行 と白バイ実務に欠かせない技能を競うものでした。

鈴鹿では1992年第24回大会まで行われ、翌年第25回大会から茨城に新設された国営自動車安全運転中央研修所に移管されました。でも手伝いに行きましたけどね。

21回、22回、24回、25回大会のテレカ(今では知らない人も多いtelephone card!)
100台以上の白バイが鈴鹿サーキットのレーシングコースをパレードするシーンは壮観でしたよ。(21回がCBX750PであとはVFR750P)

そういえば、白バイだけでなくパトカーの訓練も行っていましたが、ボクの出身町の先輩が佐賀県警から派遣されてきたことがありました。その先輩の実家は酒屋さんで我が家の商売敵だったのです。まあ商売敵は嘘ですが、ご本人はまさかボクがこんなところにいるとは思ってもいなかったみたいです。

CB450P

1979年(株)ホンダランド(現在はモビリティランド)に入社し、約二カ月の研修の後、5月に鈴鹿サーキット交通教育センター(STEC)へ配属。

まずは見習いインストラクターとして指導方法と関連知識、運転技能の習得を実地で学ぶことに。

指導対象は白バイ・パトカー隊員、郵政赤バイク職員、電力会社や電電公社職員、本田テストライダー・ドライバー等バイクやクルマを仕事で使う方々の安全運転能力(技能・知識・態度)の向上をはかることが求められていました。かなり大変な仕事だぞ、と気を引き締めました。

とりあえずクルマの技能はなんとかなるかなと感じましたが、バイクは正直ほとんど経験がない、でもやらざるを得ない。先輩の指導でスラロームなど走り込みに励みました。

練習バイクは廃車寸前のCB450Pでしたが、低回転域でのトルクがなくて乗りにくくかなり手こずりました。上のWINGバッジはそのCB450Pのタンクについていたもの。廃車の際に許可を得ていただきました。今は店の本棚に飾ってあります。

砂利道走行や電柱を横にした一本橋を渡るなど難易度の高い訓練も多くあったのですが、先輩たちは難なくこなしているのでした。ということは人にできてボクにできないわけはないわけで、もうやるしかないですよね。

郵政赤バイや電力会社、テストライダー訓練など見習いとして担当し、その年の11月には初めての白バイ中堅指導者訓練を先輩の下で担当することになりました。訓練バイクはCB750Pです。いや~緊張しましたね。でも隊員の皆様は明らかに新米インストラクターであることが見え見えのボクにやさしく接してくださり励ましていただきました。(下はテストライダー訓練:見習いのころで旧施設)

当時の名刺。
「警察庁中部管区警察学校自動車技能専科 指導員」となんともいかめしい肩書が記されておりました。

またこの年1979年に新たな施設をオープンし、本格的な安全運転普及の最前線として活動を開始したのでありました。下はプレスリリースのコピーです。

でも年が明けたらオートバイ専門教習所の係への異動となったのです。ですから安全運転講習のインストラクターとしての現場での経験は半年足らずで終わったのでした。もう少し経験したかったですね。

鈴鹿サーキット交通教育センターのはじまり(Honda WebSite)

教習所についてはまた別の機会に書きます。