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男はつらいよ1

アマゾンプライムで「男はつらいよ」シリーズすべてを視聴できるので
今日は第一作目を視ました。
昭和40年代の懐かしい風景と古典的な下町人情話です。
いいですね~

ここのところ海外TVシリーズに凝っていて、今はブレーキング・バッドの
スピンオフである「Better call saul」をDVDで視ていますが、
「男はつらいよ」シリーズ、たま楽しみが増えました。

この第一作は1969年制作なのですが、映画のワンシーンでバイクが登場します。
バイクの一般道路でのヘルメット着用義務は1970年にはじまったので、みんな
ノーヘルメットで運転していますね。
時代を知ることができて、こんなところもいいですね。

8/27の公式ツイッターを見たら下の記事があった!
そういえばこの日にこのシリーズを見つけたのだった。
これも何かのご縁でしょう。
【本日8月27日は映画『男はつらいよ』第1作目の公開日です】
本日8月27日は49年前に映画『男はつらいよ』第1作目が公開された記念すべき日です!
そして今日は『男はつらいよ』の日でもあります。

NISSAN CHERRY

大学二年の冬に富士スピードウェイで開催された全関東大学対抗ジムカーナ大会で乗ったクルマです。

日産自動車から提供された1000cc4ドアでジムカーナ仕様に足回りやロールバーなどの改造・エンジンチューンアップがなされていました。このクルマまあ大変癖が強くタックインによる姿勢変化が半端なかったですね。中には縦にまくれてひっくり返る競技者もいました。

当時全関東学生自動車連盟の事務局は日産大森分室に間借りしており何回か会議等で訪れました。

この大会には当時日産ワークスドライバーだった星野一義さんがゲストで招かれておりました。

競技成績は個人部門第三位。
それまで賞状やトロフィーなどには縁がなかったので大変うれしいことでした。
トロフィーは捨てましたがプレートだけ残してあったので一応証しとして掲載しておきます。

MGU_AUTOMOBILE_CLUB

1977年(S52)刊行の明学体育会報は学院創立100周年および体育会発足25周年記念号で、部創設のいきさつやエピソード等を含んだ各部紹介がメインテーマでした。

自動車部紹介文は当時主将だったボクの役目で下記のような内容を書きました。
中にも書いていますが1970年代は我が明学自動車部は競技成績では全盛期でした。
かたく稚拙な文章ですが電子的備忘として掲載しておきます。
(ちなみにこの文はGoogleドライブのアップロードした画像ファイルをOCRとして Googleドキュメントエディタ形式に変換する機能を使いました。ものすごく便利ですよ、おすすめ!)

自 動 車 部

自動車部が創立されて、 二十余年、四半世紀の年月を数える歴史を持つ。

創立当時はまだまだ自動車というものは一部の人々のいわゆるステータスシンボルであった。
しかし、モータリゼーションの発達はめざましいもので、現在では車なしの生活は考えられないまでになっている。
それと並行して、自動車の持つメリットと相反する諸問題が顕存化してき。
まず、自動車のまきちらす排気ガスによる大気汚染問題、オイルシィックを契機にしたエネルギー問題、交通事故、多ずぎる車による交通問題等なんと数多くの問題をかかえていることか!

われわれ自動車部は、これらの多数の問題点をもつ自動車を活動の手段として使用しているのである。また、こよなく車を愛する者の集まりである。
車社会が大きく変化してきたとともに自動車部も大きく変わってきた。
創立当時、まだもの珍しいものであった車。車に乗りたい、 免許を取りたいと思って入部する部員も多かった。が現在では、モータリゼーションの発達が車を日常化したために、車に対する興味が半減し、わざわざ自動車部に入ってまで車に接しようとしなくなったためか、部員数が減少の傾向にある。

自動車部の活動における車とは、スポーツの手段なのである。サッカーのボール、 テニスのラケット等と同じなのである。サッカーの選手がボールを自在に操るように、われわれは自動車を自分の意志どうりに操ることに 無類の喜びを感じるのである。

一般に行われているモータースポーツいうと、レースやラリー等を思う人が多いと思う。昨年、自動車レースの最高峰であるF1グランプリが日本で初めて開催された。
しかし、学生スポーツとしての自動車部の行う競技は、一般のモ ータースポーツとはまた趣を異にしている。

フィギアと呼ばれる運転技術を競うものがある。これが体育会自動車部というものを可能としている最も大きなものである。車というものは、走っている時はハンドルはあまり重く感じないものであるが、 一時止まってハンドルをきろうとしてもなかなかきれるものではない。
フィギアとは、人の歩くくらいの速度で車を動かすため、相当の体力と持久力が必要となっ てくる。また、車が通るか通らないかくらいの狭くて複雑なコースを脱輪したり、接輪したりしないで、しかも決められた時間内に他よりも早くゴールしなければ勝てないのである。
この競技に勝利を収めるべく、われわれ自動車部は、車のことを知り、体力をつけ、精神力を養う努力を重ねている。
本年度全関東フィギア大会において、わが明学は男子準優勝、女子優勝、個人三位という素晴らしい成績を収めた。

もう二三自動車部の行っている競技について述べさせてもらうと、先に車を乗りこなすには車を知ることが必要であると述べ たが、車を知ること、すなわち整備技術の修得である。それは単に知識だけではなく、古い部の車をまともに動かずために必要欠くべからざるものである。そして日頃 の整備技術を競うものとして、整備大会というものがある。

次に耐久走行大会というもの、ダートトライアルというものがある。
簡単に 説明すると、耐久走行とは、富士スピードウエイを使用し、レース化するのを防ぐためサーキットを一 周する上限時間を設け、コースを五〇周くらい走行して義務づけられたタイヤ交換やプラグ交換等のピット作業と、部車の耐久性を競うものである。

ダートトライアルとは、舗装されていない悪路にコースを設定してより早く走る競技である。一般の走行とちがい、横すべりやジャソプ、あるいは運転を一つ誤まれば横転するようなこともある。より高度なドライビングテクニックと経験が必要となる。

以上、説明した四つの競技が全関東総合成績に関係してくるものである。
優勝すると三十点、以下二位二十九点、三位二十八点とポイントが与えられ、四つの総合点で全関東の 総合成績を決定する。
我自動車部は、七十三年度に男女共総合優勝し、昨年度も男子が総合優勝、学内でも体育会の最優秀クラブ賞を二度もいただいた。この栄誉と創立以来、諸先輩方の築いて下さった伝統を今後とも発展させ、自動車部を存続させていかなければならない。

また、先にあげた車の持つ反社会的な面に対しても決して目をそらさず、自動車部員として恥ずかしくない考えとそれに基づく行動をとることが大事であると思う。
今年で七年目になる交通遺児育英募金や、交通問題に関する調査、シートベ ルトキャンペーンなど学連とともに協力して、積極的にそれらの運動に参加している。

また一般ドライバーの模範となるべく、日常の運転においても自分は自動車部員なのだという気持ちを忘れずに努力しているつもりである。そして自動車部員が模範的交通人であることで、交通社会に一つの示唆を与えることができればと思うのである。
最近、暴走族と呼ばれる一部の若者が車を使用して乱行を働いているというのを見るのは、自動車を正しく使い、ルールを守りスポーツとして自動車を愛する者にとっては、心痛いことである。
まして我国において、 モータースポーツはまだまだ一般の人々の理解を得ているとは思えない。一つのスポーツとして理解してもらいたいと思う。

最後に、一つの目的に向かって部員一同、一致団結し、なおかつ自己をみつめ鍛え励むことは、他の体育会各部と同じである。学院創立100周年を迎かえ、体育会全体としてこれを機にさらに発展していくために、共に努力を惜しまないつもりである。

74S105

一浪して1974年に明治学院大学社会学部社会学科に入学。
1974年に社会学部(Sociology)なので74S105がボクの学籍番号です。

入学前から自動車部に入ることを決めておりました。
というのも、進学雑誌で早稲田大学自動車部の女性がクルマでアジア大陸を冒険する記事を読み、もうこれは絶対早稲田自動車部だと勝手に決めてしまったのでした。でも現実は厳しく一浪しても早稲田は手が届かず、明治学院となったのでありました。
web検索でこの記事を見つけました。たぶんこの中の大賀愛子さんがその早稲田大学自動車部OGです。

あと話が前後したようですが、なぜ社会学部かというと卒業後はジャーナリストになりたかったのです。ゼミも犯罪社会学でしたし一応目標は持ってはいたのですが、諸般の事情で進路変更をしたのでした。

 

写真は明治学院大学体育会自動車部の卒業記念カーバッジです。
そば屋のレジカウンターに置いてあるのですが、時折このバッジを見て明学出身者の方やご家族が声をかけていただきます。
中央のマークは明学のシンボルマークみたいなものなんですね。
元NHKアナウンサー村上信夫さんともこのバッジでお知り合いになれました。

ところが数年前いわゆる「MGブランディング」なるものをしてイメージチェンジしたのです。
HONDA Nシリーズロゴデザインをした佐藤可士和さんの手になるものです。
イメージカラーはイエロー、クラシックだけどモダンなフォント、Do for othersのキャッチ、さすがです。正直明学にあまり愛着を感じている方ではないのですが、このブランディングデザインは気に入っております。
ボクの明学はヘボン博士・島崎藤村・佐藤可士和ですね。

ボクの大学生活はほぼ自動車部だったので、74sではなく74aにするのが本当かも?

しばらく自動車部とその時代に乗ったクルマの話になります。

MAZDA B360

ボクが乗ったバイクがほぼ終わったので、次はクルマ。

実は以前ブログにいくつか書いたのですがすべて消去してしまったので再度思い出しながらアップしていきます。前の記事を読んだ方ももう一度お付き合いください。

で、人生で初めて高校生の時自分で運転したのがマツダのB360トラックでした。

今でもよく覚えていますが、坂道でUターンしようとした時に、サイドブレーキを使うことを知らずに、ブレーキを離すと下がってしまうしどうするか悩んで、ブレーキをかけながらアクセルを踏めばいいことに気付き、静止状態の「ヒールアンドトー」をマスターしたのでした。

今は「ヒルスタートアシスト」とかいうのがついているようですが。

実家が酒屋で商売に使っていました。
高校を卒業して大学浪人の時に普通自動車免許を取得して乗ったのがマツダファミリアバンだったので、あまり長くは使用していなかったはずです。
当時我が家はマツダ派で商売にはずっとファミリアバンが活躍しておりました。

父親がこのファミリアバンで国道203号線の牟田部あたりの直線道路で100km/hを超えたぞ!と自慢していたことを思いだしました。

マツダのディーラーから「コスモロータリー」などのパンフレットが届き、ロータリーエンジンンの仕組みを興味深く読んだ記憶があります。画期的なエンジンでしたよね。

MAZDAがゾロアスター教の最高神「アフラ・マズダー」から命名されたことは、最近世界史の復習をしていて知りました。

マツダって広島で頑張っていますよね。応援しております。

CBX1000・CB900F

バイクなのに6気筒で1000ccって何なのッて感じでしたよね。

このCBX1000、ボクの義母すなわち妻の母親が所有者で時々借りて乗っておりました。義母の前の所有者は職場の同僚でSITさん。

で、なぜ義母がこのバイクに乗っていたかという話。
ある40代の女性が大阪のとある町に住んでいたのですが、家は坂が多いところで自転車では大変なので原付バイクを使ったらこれが快適で、小型二輪免許を取得して125ccに乗ったらさらに快適で、中型二輪免許を取って400ccに乗ったらこれは別世界、もうとどまることを知らず大型限定解除するしかないと、その女性は鈴鹿サーキットのバイクのスクールに通うようになったのでした。そしてついに大阪門真の試験場で限定解除に合格したのでした。

そのころボクは鈴鹿サーキットに就職してオートバイ教習所の仕事をしていたのですが、もちろんその女性のことは同僚たちから聞いておりました。すごいおばさんがいると。
そしてなんとその女性の娘がボクが入社した翌年に同じ会社に入社し、同じ職場に配属され、数年後配偶者となったのですね。

しかも大阪の自宅を処分して両親は鈴鹿へ引っ越し、バイクをコンセプトにした喫茶店を開業したのでした。
鈴鹿に来た頃はCB750Kに乗っていたのですが、どうしてもCBX1000が欲しいとSITさんから譲り受けたのでした。

娘の方も母親が限定解除したわけですから私は中型でいいですというわけにはいかず、将来の夫に叱咤激励されながら限定解除したのでした。じゃあ大型バイクを買おうかということで知り合いのバイク屋さんがおすすめしたのがCB900F、輸出仕様ですね。いいバイクでした。これも本人はあんまりバイクが好きでは無いようでボクが良く乗りました。

喫茶店は「Windy」といって、お客様はやはりバイク好きの人達が沢山。ツーリングなどにも行きました。義母は2003年に義父は2009年に他界しました。一緒に住んでいた家が今はそば屋になっております。

8耐は現代のお伊勢参りだなどという著名な作家もいて、なんだか世の中がバイクに酔っていた時代だったような気がします。

ボクは流れでそのバイクの時代の最中にいたのですが妙に覚めていたのかも?

仕事でも三重県だけでなく全国の教習所の先生たちを指導する立場になったのですが、もちろんこれはボク個人の力ではなく鈴鹿サーキットという環境やブランドが可能にしたのであり、そういう意味では恵まれていたのでしょうね。

バイクに関する仕事では、子供たちを対象に将来のレーシングライダー育成を目的としたSRS・J(鈴鹿サーキットレーシングスクール・ジュニア)の立ち上げも担当しました。また別の機会に書きます。

running2回目

三冊の走る本を読んで、何となく6/21に普段着で2kmほど走ってみました。

これがまあ大変。10日ほど筋肉痛で身体がまともに動かない。
こんなにも鈍っていたのかとあきれはてました。

第二回目が昨日7/4。
一応走る格好をして3km走ってみました。
足元はTEVAのサンダル。指先がフリーで結構快適です。
神戸城の石垣の上から。

まあ歩いているのと変わらない超スロージョギングですが。
平均時速6km/h。
途中西条中央公園で裸足ランを1km。
やわらかい草(芝生)の上で気持ちいいです。

疲労の具合はかなりか改善されました。

さてどのくらい続きますことやら。

名護屋城の謎

2015年11月、祖母の33回忌、母の13回忌の法要で家族全員7人で帰省した際に、
鎮西町にある大望閣というホテル泊まりました。

そのホテルのすぐ近くに「名護屋城」があるのですが
地元東松浦で育ったにもかかわらずほとんど関心を持っていませんでした。

太閤秀吉が朝鮮出兵の前線基地として造ったお城で大したものではないだろう、ぐらいの認識でした。
翌日早く起きたので折角だからちょっと見てみようといってみてビックリ!
城の建物は当然全く残っていないのですが城郭の規模は想像以上で、オオこれはすごい!と天守閣跡まで一気に登ってみました。
そこには青木月斗の句碑が。
「太閤が睨みし海の霞かな」

また全国から集まった錚々たる戦国大名たち!徳川家康・前田利家・伊達政宗・長曾我部元親・藤堂高虎・石田三成等々オールスターじゃないか。

それ以来、名護屋城や文禄慶長の役に関心を持つようになっていろいろ本を読んだり、佐賀県立名護屋城博物館から資料を取り寄せたりしているうちに、なぜ名護屋にお城を建てたんだろう?という疑問がフツフツとわいてきたのでした。
いくら壱岐対馬に近いといってもあんな片田舎で立地条件も悪いし、全国から100以上の戦国大名たちが陣を構えるには地形が良いとは言えないし、博多という良港があったのに、などなど。

でつい最近三重県立図書館でこの本を見つけたのでした。著者の原口さんは唐津の中学校などで社会の先生をされていた方で鎮西町史などの編纂委員も歴任されています。先日鎮西町教育委員会に問い合わせたら4年ほど前に他界されておりました。

原口さんは、19歳から17年間唐津で過ごした博多商人で茶人の「神屋宗湛」の茶会記をもとに状況証拠を固め、「神屋宗湛」こそが秀吉に名護屋を薦めた張本人であると推測されています。

また波多氏の改易の経緯についても興味深い推測をされております。
波多氏改易については我が田久保家の先祖もその影響をうけておりもう少し詳しく知りたいところです。

下の資料はこれからのたのしみ。時間はあります。

TLR200

1983年に発売されたTLR200

公道も走ることのできる本格的なトライアルマシンです。

バイクに囲まれた環境で時代の流れもあり、MFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)のライセンスを取得し、本格的にトライアル競技に参加したのでした。

この写真は鈴鹿サーキットにあったトライアル場で競技に参加しているところ。
F1誘致などに伴う造成で今はなくなりました。レーシングカート場になっているあたりです。

1983年に東京の多摩テックで日本で初めてのスタジアムトライアルが開催されました。ボクも職場の先輩たちと観戦に行ったのですが、当時の多摩テック業務課長KNSGさんの依頼で、同じ会社ということもあり急遽競技役員として手伝う羽目に。まあ、間近で世界最高のテクニックを見ることができてラッキーでしたけどね。
多摩テックは2009年9月30日閉園しました。

写真は世界トライアル選手権チャンピオンでホンダワークスライダーのエディ・ルジャーン選手。バイクでバックしたり空中で180度向きを変えたり、もう想像を超えたテクニックに驚愕しました。

トライアル競技には2年ほど参加していましたが、競技中に1mくらいの段差から降りるときに衝撃でムチ打ち的な損傷をおって頸椎を痛め、競技からは遠ざかってしまいました。

でも、最近ボクより3歳上の知り合いのバイク屋さんがトライアルにはまっているらしく、すこしムズムズしているのです。

HAWKⅡ・CBX400F

1980年1月に二輪教習係へ異動。

以来11年にわたって二輪教習業務に携わりました。

法的には「指定自動車教習所」。
道路交通法第99条に規定されており、法の基準に適合したら本来各公安委員会で受ける技能試験を教習所の検定でOKとするよ、という制度です。なので結構お堅いお仕事でした。

指定の基準に、指定前の教習で教えた教習生に県の試験場での技能試験を受けさせ、初回合格率95%を達成する必要がありました。20人で19人合格ですよ!結構苦労しました。

1982年3月17日に晴れて三重県公安委員会指定「鈴鹿モーターサイクルスクール」は発足したのでした。
そのころ二輪専門指定教習所は全国でも数えるほどしかなく、空前のオートバイブームもあって忙しかったですね。
また、指導員になるための試験や教習に必要な知識を得るために学生時代より勉強しました。

その当時使っていた中型教習車両がホークⅡCB400T。二気筒エンジン、アップハンドルで教習車両としては適していましたが人気はいまいちだったようです。
下の写真は指定後技能教習中の写真で、青いゼッケンの教習生がホークⅡ、先導でボクが乗っているのはCB750Kです。

指定を取ってすぐに教習車両はCBX400Fに。下は教習生募集のチラシで、20代後半のボクと教習生モデルはその年の鈴鹿サーキットレースクイーンだったMMさんです。

指定前2年、技能・学科指導員として3年、技能検定員として6年で合計11年間の卒業者数は約15,000人。
当時、特に鈴鹿市内ではどこに行っても卒業生に会うわけで複雑な感じでした。

1989年4月には教習係の係長と副管理者に。管理者というのは法に適合した管理をする者で警察OBが天下りするのが普通です。その管理者の補佐です。

1991年2月にようやくお堅いお勤めから解放され、交通教育センター業務全般を担う比較的自由な役職へ異動になったのでした。

その後2003年に交通教育センター所長になったのですが教習所の設置者(経営責任者という立場です)も兼任したので、指定教習所の一通りの仕事を経験させてもらいました。

残念ながらこの二輪教習所は2009年9月で営業を終了してしまいました。