田久保家由来

天川の開拓者として伝承される人に天川氏・田窪氏・千葉氏が存在する。
いずれが最も古い存在かは判らないが、伝承を記して参考にしたい。

天川氏は『草場庄屋の由緒』によれば、天川氏の祖 天川佐渡藤原尚継は大和国天川村の庄屋で、父の罪の連座 を逃れ家扶の山田宗右衛門に伴われ、讃岐国の吉野川上流天川神社に身を寄せ、成人すると伊予国に出た。そこ で松浦水軍と知り合いとなり、松浦党の船で松浦の地を踏み、上松浦の首領岸岳城主第10代波多丹後守勝に仕えた。天川尚継は知行地として天川の千五百石を宛行された。山田宗右衛門と共に天川を開発した。子孫も尚継を襲名、天川の開発と安寧につとめ、藩政初期寺沢志摩守広高が唐津藩主の時の慶長三年、天川土佐尚継は天川村庄屋に任命され後継者は居付庄屋を世襲した。庄屋四代目は草野郷から草場平右衛門が入婿となって庄屋を継いだ。その時より姓を草場と改め、幕末まで庄屋を務めた。庄屋草場平右衛門は金毘羅嶽騒動に連座し、広川村庄屋預かりとなった。この事件落着後、庄屋職は跡取り息子の市郎左衛門に与えられ、彼は庄屋廃止まで務め、明治の地方制改革後も役職(天川村副戸長など)につき天川および五ヶ山地区の指導的立場を保っている。
天川尚継が天川入りをしたのは凡そ七百年前と伝えられる。七百年前は鎌倉期末から南北朝前期であり、尚継が仕えたという岸岳城第10代波多勝の存在も、必ずしも確かでないので尚継の天川入りを、伝えの通り断定することは難しい。しかし、波多氏が改易され唐津藩成立時、田窪氏・千葉氏などの土着有力者を差し置いて庄屋に任命されたことは、天川氏が天川村で最も旧い、しかも高い地位を保っていたことを示すものである。

田窪=田久保氏由来
天川・広瀬の集落を主体に分布する田久保氏は、大正12年、天川の字田久保に一族が集まって「田久保祖先 天の碑」を建立した。碑銘は次の通りである。
「田久保祖先之碑 田久保氏之祖先某君事 於肥前国阿蘇惟直公建武 年間 従于勤皇軍公戦死之時因遺言 葬于天山之暉 某君亦永住于天川里傳口碑矢 其子孫田久保甚五左工門尉藤原吉詮天正年間事于岩屋獅子城主霍田越前 守前公及嗣君上総介賢公見称城中三士之一人天川人 而住中島全姓新左工門蓋其子乎明記於丹丘霍田家女 譜矢惜哉 不能詳墳墓天正年間建立天満宮及本立寺 云乃以田久保鶴太郎家為宗家今乎同姓繁殖於諸方 不堪祖先追慕之念同姓相謀欲建靈碑 嘱碑文秀島欖山 謹而誌其梗概 銘曰 忠誠百世追遠設霊祠 皎皎天山月千秋照是碑 于時大正十四年冬十二月建設 田久保同族中」
「田久保氏之祖先某君於肥前国阿蘇惟直公に事う。建武年間(一三三四~一三三五)勤皇軍に従い公戦し死する。 この時、遺言により天山之鎖に葬る。某君亦永く天川の里に住むと口碑に伝える。其子孫田久保甚五左衛門尉藤 原吉詮は、天正年間(一五七三~一五九一)岩屋獅子城主霍田越前守前公と嗣君上総介賢公に称見(目に叶う) された三士の内の一人である。天川の人だが中島に住む。同姓新左衛門その子、丹丘(多久)の霍田家々譜に明記 される。惜しい哉、墳墓は詳らかにする事能わず。天正年間に天満宮及び本立寺を建立するという。即ち田久保鶴太郎家を以て宗家と成す。今同姓諸方に繁殖し、祖先追慕之念に堪えず、同姓相謀って霊碑を建てんと欲す。秀島欄山に碑文を嘱す。謹んで其の梗概を誌し銘とす忠誠百世に垂る追遠して霊祠を設く。皎皎たり天山の月千秋是碑を照さん。大正十四年十二月建設 田久保同族中」

伝承によれば田窪氏は伊予国の豪族越智氏の流れ河野氏の一族で、同国浮穴(うけな)郡高井邑に住んだ河野太夫兼高が高井を称し、その孫小太夫孝房が田窪を称した。伊予国に分布する田窪氏の祖である。
以下参考資料————————————————————————————-
氏類別大観 【越智氏】
 孝霊天皇の第3皇子伊予皇子の子、越智王子にはじまる伊予の小千国造、伊予大領として伊予国越智郡に古代以来の勢力を持っていた。 また大三島大山祇神社の祭祀を行い、一族は土佐、日向から信濃、大和、越前、尾張まで広範囲に広まる。風早郡河野郷に住した越智玉澄の後裔は「河野」姓を称して、子孫は瀬戸内海の水軍としても活躍して、治承の乱以降は源氏方として軍功をたてている。
 後世の武家越智氏は、大名家として一柳家(2家)、久留島家、稲葉家(3家)が明治に至る。明治の俳人として著名な正岡子規は、河野親経の弟北条康孝の子経孝を祖とする松山藩士正岡隼太の子である。
《孝霊帝裔氏族綱要》

孝房-田窳氏(田窪)

田窪氏が天川に土着した時代について「田久保祖先碑」は、天川田窪氏始祖某は肥後国阿蘇惟直に仕え、建武三年(一三三六)の多々良浜合戦で阿蘇惟直は足利尊氏軍に敗れ敗走中肥前国小杵山 (天川村内)で土豪の襲撃に遭い自刃した。惟直に従っていた田窪某は遺言により惟直の墓を天山の嶺に建て、天川に土着し、その子孫が繁栄したという。
しかし、それ以前に田窪姓を名乗る人物が居たことは「石垣山注進状(注進 建武五年三月三日 於筑後国石垣山菊池武重以下凶徒等合戦時松浦一族等討死・手負・分捕交名勘文事)相知町向開所蔵=松浦十太輔契家草案」にこの合戦に北朝方探題軍に参加してた菊池武重がいるが、戦国中期までは厳木・五ヶ山地区は小城の千葉軍の石垣城を攻めた中に厳木五ヶ山の人々も参戦しる。その中に「田窪源三郎壱・右足射疵」とある。この状には厳木や天川地区の人物と思われる厳木八郎守・宮原八郎伝・広瀬九郎壱・宮原亦四郎等が記されている。石垣山合戦は多々良浜合戦から僅か二か年が経過しているに過ぎない。そんな短期間に菊池軍にあった阿蘇氏の家臣である田窪某が敵方である松浦党軍に入り奮戦するとは考えられない。
田窪氏の天川土着は『石垣山合戦交名状』から考えて、南北朝期以前であると考えざるを得ない。田窪氏が伊予国の河野氏の一族であれば、田窪氏の祖が肥前国に来たことに関わりあいがある史実としては、鎌倉時代の中頃元寇襲来の時、河野一族は功名を挙げ恩賞として肥前国に所領を得ている。その時河野氏の一族である田窪氏も天川に土着したとも推察できる。
天川氏と田窪氏の天川土着はいずれが早いかは不明だが、両氏とも四国伊予に関係があるとされるのは興味深い。天川地区でも天川氏の居住地は天川の中心である字中村であり、田窪氏の居住地は天川の川下の字田久保であることは、天川氏が早く土着し、そのあとに田窪氏が土着したとも考えられる。
戦国期田窪氏は岸岳城の波多氏に仕えたと伝承されているが、戦国中期までは厳木・五ヶ山地区は小城の千葉氏の勢力圏内で、田窪氏が波多氏に仕えたとは考えにくい。戦国末期この地区は松浦党の一員獅子城の鶴田越前守前の支配下におかれた。『秀島鼓溪覚書』には、鶴田越前守前の家臣の中に「田窪甚五右衛門尉=侍大将天川の人 前君に仕え広瀬に居る 獅子城三士の一人 後裔あり」とある。天川の日蓮宗妙光山本立寺の開基が田窪甚五左衛門であり、甚五右衛門尉と甚五左衛門は同一人である可能性がある。甚五右衛門尉は広瀬に居住したとあるので、同族は天川に引き続き居ついたものであろう。
田窪が田久保に姓を変えたのは何時で、何故かは不明で、上松浦の松浦党首波多氏が改易された時、波多氏につながる一族はそれぞれ新たな道を選んだ。その中に苗字を替えた氏族も見られる。田窪も下野したり帰農するに際し、一族相謀り田久保への姓変えを一斉に行った可能性がある。田窪の一家のみが姓変えしたのなら、子孫の中に田窪姓の存在があるはずだが、当地には田窪姓は皆無で、田久保姓のみである。
田久保哲明の電話帳調べ(一九九九年)によれば、厳木町内の田久保姓は天川一七戸・広瀬一二戸・牧瀬五戸・ 厳木一六戸・中島一戸・高倉一戸の計六一戸である。


以下参考資料(田久保浩貴の考察)—————————————————————–
日本全国で田久保という地名は佐賀県唐津市(旧東松浦郡)厳木町天川の田久保地区と千葉県匝瑳市にある田久保地区の二か所だけである。匝瑳郡史によると封建時代(室町後期16世紀後半)には古文書にも田久保の地名が表れており、文禄年間(16世紀後半)に改易された波多氏につながる田窪氏が下野する時に一族相謀り田久保への姓変えを一斉に行った可能性が高いとされているが、同じ天川地区で相親しくしていた千葉氏が「田久保」の地名を知っており、姓変えにあたってアドバイスした可能性も高いと思われる。

口伝によると中村地区の「上ん者」と田久保地区の「下ん者」は融和が出来かねた。「上ん者」が若宮神社を氏神とするのに対し「下ん者」は地区内の天神社(天満宮)を氏神としている。明治の合祀令による神社合祀後も、若宮神社の秋祭りに「上ん者」が浮立を奉納するのに対し、 「下ん者」は伝統の棒術を奉納していた。棒術を伝統武術として保持している田久保が武術としての棒術を伝えていたことを物語る。

*添付資料匝瑳郡史の写し

千葉氏
天川の古い家柄として天川(草場)・田久保・山田の各氏が語り継がれている。山田氏は天川尚継と共に天川に居付いた血脈であるとされる。千葉氏については小城の千葉氏が所領を天川地区に拡大した時、天川の支配者として千葉清衛門が入地して居付いたのに始まると語られている。千葉清衛門は小城の千葉胤貞の親族とされる。千葉胤貞は戦国時代の人物であり、千葉清衛門の入地の時代はもっと旧い時代であろう。小城の千葉氏が肥前国に下向し、所領を支配したのは鎌倉時代の元寇襲来の時からであり、少なくとも鎌倉後期からは天川地区は千葉氏の支配を受け、戦国期初期まで千葉氏の勢力下にあったと思われる。千葉清衛門や一族にまつわる話はありうるものであろう。
千葉清衛門は小城市市川より天川に入り、先住の天川氏一族との紛争を避けるため、天川氏の居住地中村の川向かいに当たる山口地区に邸を設けた。邸の建築に当っても土地の人を使わず、市川の大工を連れてきたという。そして、先住の天川や田窪の人々とも交流し、山口地区の開発も行っていった。また、よそ者の侵入を防ぐため 砦を築いたという。
天川・田窪・千葉の各氏は天川の開拓者であるが、この三氏の関係について正確な史実を確定することは困難だが、三氏が融和して天川郷は形成されていった。その過程に天川氏と田窪氏の縁戚や千葉氏との結びつきが物語として伝えられている。
田久保哲明著の『嚢祖(のうそ)の人びと』には、田窪の始祖 田窪源三郎は天川に入るとともに先住の天川氏と融和を図り、長男源太郎に天川の娘お袖を迎え、天川に定着させた。千葉氏と田窪氏の関係については、千葉氏は天川入りをすると共に、小城市市川から天川への道沿いに砦を築いた。砦は字峠の「神護石(こうごいし)」と呼ばれるところと思われ、位置は現在の町営グラウンド附近と推定される。この砦について『松浦記集成』は天川城と記している。
天正二年、佐賀の龍造寺隆信は鬼カ城主草野鎮永を攻めた。この時、龍造寺軍の主力は小城の岩蔵・市川を通り五ヶ山郷の山道を七山郷へと向かった。そのころ天川は波多氏の勢力下におかれていた。龍造寺軍は天川城を攻め下して進軍したといわれる。この天川城とは神護石と呼ばれるところにあった砦を指すものであろう。
この砦の築城にまつわる話として、次のような物語がある。砦の警備には天川の住民がかり出された。其の中に田窪源三郎の三男源吾郎がいた。夏のある日、源吾郎が詰めている夜に限って砦の外から不思議な音が聞こえ怪しいと思った源吾郎が確かめに砦の外に出てみると、一人の女性を見つけた。女性は千葉清衛門の娘オチカであった。問いただすと源吾郎を恋い慕いそのような行動に出たという。オチカは先年の盆踊りの時、源吾郎のりりしい姿に一目惚れし、女にあるまじき行動に走ったという。オチカは美人であり、源吾郎もオチカの情にほだされ、二人は相思相愛の仲となった。これを知った千葉清衛門は当初は怒ったが、オチカの情熱に押し切られ、二人の仲を認めざるを得なくなった。二人の結婚を機会に千葉と田窪の両家は親密となり、後年両家で菩提寺本立寺を造るほどになった。
天川・田窪・千葉三氏にまつわる話には時代の相違があり、史実としては認めがたいが、天川開拓が三家の融合によりできたことを物語るものとして無視出来ない。

阿蘇惟直と天川
天川が地方史に語られるようになったのは南北朝期の建武三年(一三六三)以降のことである。同年、多々 良浜戦において足利尊氏に敗れた阿蘇惟直は、筑紫山系の山中を通り阿蘇へと向かった。諸戦記は惟直は傷つきながら、小竹山を越えようとしたとき、土着民の襲撃を受け自刃したと記す。小杵山について天川と池原の境目の小杵山とする説と、小杵山は小城山とする説がある。惟直を撃った土着民は単なる敗残者狩りの土着民とする説と、五ヶ山郷は小城千葉氏の所領で足利方についた千葉氏の配下の者どもに襲われた説があり、いずれにしても天川には阿蘇惟直に関する伝承がある。当時、筑前怡土郡から肥前佐賀へ筑紫山系を抜ける道があり、その一つが七山郷池原から五ヶ山郷の天川を通っていた。阿蘇惟直が敗残の身であり、敵に襲われる恐れの少ないこの道を選んだとしても不思議ではない。阿蘇惟直が足利軍に付いた千葉氏の所領地五ヶ山郷に入ったとたん、千葉氏配下に要撃を受けることは当然で、惟直一行が殲滅されたとあるのも当然で、小杵山周辺が阿蘇惟直の最期の地とする説は史実であるといえよう

龍造寺隆信の草野攻めと天川
天正二年(一五七四)、龍造寺隆信が草野鎮永を攻めた「草野攻め」の名目は、草野勢の小城市の山岳地への蠢動に対する報復と記す戦記が多い。天正元年龍造寺隆信は二万の大軍を以て、小城岩蔵を通り天山山系の山道を通り、五ヶ山郷の鳥巣で波多下野守鎮の武将八並武蔵守らの出迎えを受け、七山郷に入り草野鎮永を攻めている。 従って岩蔵から鳥巣への道順に天川があると考えるのが当然で、岩蔵から市川を通り天川を抜け、天川からの道と同様に広川の杉宇土を通り、星領を経て鳥巣に至ったと推定される。また、天川から星領への林道もあるが、この道は現代になってからの開発なので、龍造寺軍が通った可能性は低い。また、天川から七山郷への道として天川から池原に出る道が考えられるが、鳥巣への道とは考えがたい。
近世に入り小城藩の年貢米は岩蔵を通り七山郷に出、 四年(一五九九)までに寺沢氏の所領地となった。天川 そこより浜崎村の小城蔵に集められ、京阪地方に売られている。この年貢米の搬出路に天川があり、天川から七山郷への道順は、天正年間の龍造寺軍の行路とほぼ同じであると考えられる。

天川の支配者たち
天川は鎌倉時代小城千葉氏の所領であるが、南北朝期 なった。その跡は跡取りの市郎左衛門が任ぜられ、草場 には支配力を失い、この地の土豪たちは松浦党の勢力下 家は庄屋制度が廃止されるまで居付き庄屋として世襲しに属していた。それは、建武五年(一三三八)の筑後石垣山合戦における注進状に、この戦に参戦した松浦党の中に、厳木八郎守・宮原八郎伝・田窪源三郎壱・広瀬九郎壱・宮原亦四郎など当地区の者がいる事から分かる。
戦国末期は鬼ヶ城の草野鎮永と獅子城の鶴田越前守前の競合地だった可能性が強い。しかし、天川を本貫地とする田窪氏の一族田窪甚五右衛門尉がいる。文禄二年 (一五九三)岸岳城主波多三河守親が改易された時、鶴田氏も野に下った。田窪一族も姓を「田久保」に改め野に下ったと「田久保氏由緒書」は記す。

近世
文禄二年(一五九三)波多三河守親が改易され、所領は豊臣秀吉の直轄地として寺沢志摩守正成が代官となり所管した。逐次地区は寺沢志摩守の知行地となり、慶長四年(一五九九)までに寺沢氏の所領地となった。天川が何時寺沢氏の所領地になったかは明らかでないが、「天川庄屋系図」には、天川土佐市郎左衛門が天川庄屋に任ぜられたとしている。以来、天川氏は江戸中期苗字を草場と改めた。天保九~十○年の金毘羅娠騒動で角蔵三〇日手鎖、平左衛門・新右衛門・名頭忠吾急度叱、庄屋平右衛門は所払いとなり、広川村新三郎の預かりとなった。その跡は跡取りの市郎左衛門が任ぜられ、草場家は庄屋制度が廃止されるまで居付き庄屋として世襲している。
寺沢正成は主なる家臣には知行地を宛行したが、五ヶ山地区は直轄地として代官支配とした。寛永七年(一六三〇)の記録によれば、代官は山中勘四郎であった。
正保四年(一六四七)寺沢堅高が自殺し寺沢氏は改易、所領は幕府直轄地(天領)となり、慶安二年(一六四九)以降譜代大名の大久保・松平・土井・水野が交代して支配した。この間、天川の所管については記録がないので明らかでないが、寺沢時代の制度が継承されていると思われる。
文政元年(一八一八)唐津藩主の水野氏から小笠原氏への交替に際し、水野忠邦の上知願により草高一万六九二五石余、四四か村が幕領に編入された。五ヶ山地区の天川も幕領となり、天川村から天川山へ村名も変わっている。(明治三年再び天川村となる)
幕領となった地域は日田代官所支配となったが、この地の住民の願により文政二年厳木村外一二か村は唐津藩預かりとなり、天川山などの十四か村は長崎奉行所預かりとなった。天保二年(一八三一)日田代官所支配に残っていた本山村ほか一六か村が唐津藩預かりとなった。
しかし、天保九~10年におきた幕領一揆(金毘羅嶽騒動)の処分として唐津藩預かりは解かれ、日田代官所支配となったが、ほどなく文久元年(一八六一)長崎奉行所支配と変わり、翌年には再び日田代官所支配となり、幕末に至っている。

近代・現代
明治元年(一九○五)版籍奉還により唐津藩は唐津藩県となり、庄屋の名称も代わり大庄屋は大里正、庄屋は 里正と称した。しかし、その制度は以前と同じであった。明治四年藩県制は廃止され、唐津藩県は伊万里県となり、同五年佐賀県となった。また、この五月大里正は副戸長・里正は組長と呼称が変わり、明治六年一月大区扱所の長を戸長、組長を副戸長と称し、更に10月副戸長を村長と変えた。同時に、従来の地方行政区の村行政制のほかに、戸籍編成を主目的に大区小区制が施行され、天川村は第二七大区第一小区になり、戸籍編成業務は従来の里正が兼任した。この制度は同年10月には第二七区と第二八大区は合併され、大区扱所が鏡村の恵日寺に置かれたが、間もなく浜崎地区の南山に移動した。このため関係者は右往左往せざるを得ず、困却している。大区小区制の施行中、庄屋で帰農するものが続出し、一人の村長で隣接する村を担当せざるを得ない事態も起きた。明治八年三月佐賀県は区画改正を行い、松浦郡は第五区となり区長に坂本経懿が任ぜられ、唐津町に役所を置いた。厳木・相知地区は第五大区第一小区となり厳木扱所が設けられ、戸長に波多亦六郎、副戸長に木村亀太郎・中江新八郎・秀島与一郎が任ぜられた。
明治九年当地区は長崎県に編入され、第五大区は第三六区となり、厳木地区は第一小区となり天川村も第一小区となっている。同一一年郡区町村編成法により大区小区は廃止され、松浦郡は東西南北の四郡に分割され、当地区は東松浦郡となり、東松浦郡役所が唐津町に設けられた。
明治一三年八月一四日県通達により東松浦郡内の村は 二五か村に統合された。この時、天川村は単独村となり 戸長に草場織太郎がなっている。同一六年旧佐賀県地区 は長崎県から分離し再び佐賀県となり、翌一七年六月戸 長役場所轄区の変更があり、東松浦郡内は一町二一か所 となった。厳木地区は次の通りである。
○広川村ほか五か村 鳥巣・星領・鳥越・平之・天川
○厳木村ほか九か村 中島・広瀬・浦河内(浦川内)・牧瀬・波瀬(浪瀬)・瀬戸木場・恋木・岩屋・本山
なお、広川村に置かれていた戸長役場は、明治二三年 市町村法が施行される間に天川村に移されている。
明治二二年市町村法が施行され厳木村が成立した。厳木村は天川五か村と厳木村九か村が合併し、厳木村に役場を置いた。この時、各旧村は厳木村の大字と称した。 なお、このとき五ヶ山地区の鳥巣は住民の希望で大村 (旧玉島村)に属した。行政的には五ヶ山から離れたが、住民同士の交流は従来通り続いている。
明治に入って行政機構の変更があっても集落の形態・ 運営は引き継がれ、旧庄屋・名頭・百姓総代などは役職 が無くなっても、引き続き集落の世話をし、新政府によ る行政に対応している。天川村では草場が役職を務めているので、さほどの混乱もなく、明治二二年の厳木村成 立時に至っている。

2 人の動き
(1)集落の自治
集落の自治のための経費は原則として地元負担とし、定められた税金のほか、各事業の経費は村や県からの僅 かな補助金のほかは、戸数割りとして住民から徴収され た。この場合割り当ての基準となったのは、税に係わる 県・村の戸数割り等級であり、等級は住民の貧富を勘案して決められた。公平を規するため各集落から等級委員が選出され、村に設けられた等級委員会で決定されている。明治三八年後期県税戸数割等課税表は一等から二五等に区分され、一等は一円九六銭、二五等は二八銭となっており、等級課税の平均は一円10銭である。天川は課税戸数八五、平均額を越える戸数三、以下八二となっていて、集落全体としては恵まれない階層といえる。
藩政時代は初期から幕末にかけて、耕地は僅かな増を見るに過ぎず、集落の人々は自給自足が当然であった。文化年間の記録によれば、天川の家数八O・人数三四五 人(男一九七・女一四八)である。それが明治元年戸数 八四、『明治十一年戸口帳』に戸数八六・人口三七六。 「明治十六年長崎県東松浦郡村誌」には戸数八三人口三 四二(男一七八・女一六四)となっていて、さほどの変化は見られない。それが大正一四年、所帯数七四、人数四二六と所帯数は減ったが、人数は増加を見ている。
(2)天川の人
この地区を開発した家柄として天川・田久保・千葉の 三氏があるが、これらの三氏と共に集落を維持した家々は現在も先祖の家業を受け継ぎ、新たな時代に対応して いる。現在天川に居住している人の姓は次の通りである。 「山田 草場 千葉 田久保 飯田 市丸 荒久田 車田 井手 田島 阿賀野 天川 竹厳 野田 中山 岸川 財津」この中の大半は江戸時代からこの地に居付いた家柄で、先祖の墳墓を守り、先祖の霊を祀り続けている。
明治後期から昭和の初期にかけては、石炭産業により 厳木村は賑わいを極め、村全体としては人口の急増を見たが、天川地区に影響は極めて少なく、大正期から昭和の始めに地区を離れたのは、農林業に見切りを付けて地 区を離れた人たちであり、戦中まで世帯数・人数とも変化は見られない。
戦後、引揚者や都市部からの転入で、世帯数・人数とも若干増え、昭和二四年世帯数八八・人数五〇六、同三 〇年には世帯数一〇四・人数五九〇となっている。それ が同三〇年以後の経済状況の変革が天川地区にも波及し、同四〇年には世帯数七九・人数四三七人と減り始めた。これは従来の農業だけでの収入では、各家の経済生活が成り立たぬ状態になり、若い者の地区離れが大きな原因と考えられ、人口の減り方が急激で、平成一六年六月には世帯数七三・人数二八五となった。
この地区も他の農林業地区と同様、地区の主要産業たる農林業に従事する者は、高齢者が大半であり、地区の衰微に係わる事態といえる。この地区の世帯数・人数の状態は、江戸時代より減っていることを示していて、この地区が時代の変遷に対応できない状況になっていることを示している。

(3)集落の行事
この地区の人々には長い間ここに生き、守り続けた年 中行事がある。現在は無くなった行事も多いが、行事は 集落を維持するために大切なものであったことを忘れてはならない。行事の個々の内容は「民俗編」にのせるので、ここには行事名のみ記す。 一月 切り初め、鍬入れ始め、初入り、おねび焚き、 ル七草ズウシイ、もぐら打ち、的張り、だつくれ 二月 川神様 三月節句、権現様の綱引き、彼岸 五月 五月節句、だつくれ 六月 祇園囃子、おんだよいや、川神様 七月 植え付け願成就、さなぱい、盆 九月くんち、だつくれ、氏神様祀祭(天衝舞・浮立奉納)、川神様 10月 いのこさま(一番いのこ・二番いのこ) 一一月大祭(一番丑の日・二番丑の日) 一二月 川渡飯、お日待

(4)住民の生活の変遷
近世以後、住居は乗葺きで入り口を入ると土間があり、上がり框を上がると居間があった。居間は二間か田の字造りの四間からなっていたが、殆どの家が二間造りで座敷と呼ばれるところに神棚と仏壇があった。居間には濡れ縁のある家もあった。近世中頃まで居間は板敷きで真産が用いられている。畳が居間に用いられたのは、明治 以後が大半で、近世までは庄屋や裕福な家だけである。 明治に入り生活様式は徐々に変化したが、家の造りはさほどの変化はなく、天川では昭和初期まで藁葺きの家 が一般で、瓦葺きは数軒見られる。天川分校が藁葺きから瓦葺きに変わったのは、昭和三四年であることからも窺える。
土間の奥の釜屋(炊事場)には量があり煙抜きがあっ た。大正末期から改良鎧が普及し、壷に煙出しの煙突が 造られ、終戦後まで用いられている。燃料は薪を用い、 薪は軒下に確保されていた。昭和三〇年代後半から家庭用プロパンガスが現れ、天川も大半の家が新しいキッチン用具の導入と、ガスが薪に変わって、平成年代にはいると薪を用いる家は殆ど見られない。
各地区には昭和三〇年代頃まで各班毎に共同風呂があり、世話は輪番制であった。場所は復の元二か所、山 ロ・中村・田久保・休場に各一か所が現在確認されている。
五、歴代区長
庄屋制が廃止され、それに代るものとして明治10年 代に総代が各集落に置かれた。総代が区長に替わった時 期は各集落で違っている。一律に各集落に区長ができた のは、明治二二年厳木村が成立したときからである。
区長は行政機構では任意職であるが、区長は集落の総意で選任され、集落の一切の世話をし、集落を代表する者として行政機関にも認められている。
区長制は戦前まで継承され、戦後自治会と名を変えて も実質は区長制であった。戦後村は区長を嘱託とし、末 端行政事務の一部を委任している。
区長は集落の自治のため必要な役職を設けた。役職名と職務内容は集落ごとに若干異なる。区長の指示は一般 に「散事」により集落に通達された。
集落の自治は藩政時代の五人組や一〇人組を踏襲した形で行われている。天川では、山口一八戸・榎ノ元東一 O戸・榎ノ元西一一戸・中村の上六戸・中村の下(原平 の家も含む)九戸・田久保一三戸・休場(田久保の奥) 七戸があり、これらの班は常に生活を共にし、種々の年 中行事や共同作業を行っている。戦時中、班は隣保班 (隣り組)に組織されていた時もある。
歴代区長名
明治二〇年 千葉 勘吾
明治二一年~二二年 天川宇三郎
明治二三年 天川善四郎
明治二四年~二五年草場 亀平
明治二六年~二八年 千葉島太郎
明治二九年~三〇年 山田勝太郎
明治三一年 草場電平
明治三二年 山田勝太郎
明治三三年~三五年 草場市太郎
明治三六年~三八年 草場織太郎
明治三九年 草場市太郎
明治四〇年~四一年 草場錠治郎
明治四二年~四四年 草場久太郎
明治四五年 山田勝太郎
大正二年 山田新四郎
大正三年 草場久太郎
大正四年 田久保秋太郎
大正五年~七年 山田新四郎
大正八年~十一年) 草場 篤郎
大正一二年~一三年 天川文吉
大正一四年~一五年 草場菊次郎
昭和二年~三年 田久保義郎
昭和四年~七年 草場市太郎
昭和八年~九年 千葉国二郎
昭和十年~一一年 天川 福市
昭和一二年~一三年 千葉楽太郎
昭和一四年~一七年 千葉 裸一
昭和一八年~二一年 草場 富由
昭和二三年~二三年 田久保徳之助
昭和二四年~二五年 天川正巳
昭和二六年~二七年 山田 利邦
昭和二八年~二九年 草場 富由
昭和三〇年 田久保百重
昭和三一年 草場伊三郎
昭和三二年~三三年 山田吾一郎
昭和三四年~三五年 山田 種見
昭和三六年~三七年 田久保 寿

2 畜産
昭和三五年新農山村振興計画の第二次事業として中島に共同集荷乳貯蔵施設を造り、同年一月オーストラリアよりジャージー種牝牛五八頭を天川地区の二二戸の酪農家に配分した。ジャージー種は飼育が簡単だということで導入された。この時中島地区に導入されたホルスタイン種と共に厳木地区農業の目玉として注目された。しかし、乳牛は飼育が難しく販路先との連絡が難しいことなどもあり、経営は困難となり年々飼育を中止していった。 同四八年飼育農家は無くなった。

3 林業
天川は天山山系の山嶺に囲まれた高地の盆地で、山地 が多いが江戸時代までは大半は原野の草山で、樹木の大 半は雑木であった。林業としては農業の副業として木炭 が生産され、主として多久・別府方面に販売されていただけであった。
明治三〇年代に入り、これまでの入会地も所有区分が 確定し、有効木(杉・檜など建築材)の植林が進み杉・ 松・榎などが原野に奨励されたが、天川地区では徹底し なかった。大正一三年、厳木村も本格的な官行造林に着 手した。この期に天川の原野地も私有・区有・公有に拘 わらず一斉に植林されている。天川地区の樹木は官行造 林が始まるまでは、原野地を除き、雑木地や自然松地が 多かったが、以後は杉主体の植林地となっている。造林地の管理は私有林を除き集落の人々の夫役によって行われ、集落民にとっては大きな負担であった。
その後、林業は一時期集落民にとって利益となり、逐次林道も造られ、集落内の木材も経済価値が期待されていた。しかし、昭和四〇年代に入り経済環境は大きく変わり、安い海外木材の輸入により、国内産材木の需要が低下したため、天川地区にも波及し植林の管理は不十分となって現在に至っている。
昭和四五年三月の竹ノ迫の山火事は季節風にあおられ 数へクタールの森林を焼き尽くし住民に一大衝撃を与え た。原因は不明とされている。
この他に天川には取り立てる程の産業や産物の生産は 見られないが、住民の生活は比較的安定している。

4 天建組株式会社 天川一六七〇番地に、昭和五五年一〇月天川憲一が会社を興した。その後同六一年に有限会社となり、平成二年に株式会社となった。業種は土木工事、浚渫工事、とび土工工事、建築、造園、そして舗装工事も平成二年に 認可を得ている。
その間特筆すべきは天山ダムのリップラップ工事、これはダムの堰堤を岩石でつきあげる工事で工事の成果が認められて、兵庫県姫路市の大河内ダムのリップラップ工事も五年かけて平成三年八月に完成。その後も嘉瀬川ダム本体工事で掘削の仕事に従事している。そのほか、三瀬トンネル福岡県側の道路改良工事も現在手がけている。また、平成七年には旬天奨運輸を創立し、ダンプによる採石土砂等の運搬も手広く取り扱っている。

小字名(○)と俗称地名
1 小字名
天川は天山の山腹丘陵台地に成立した集落である。ここは天山山系と作礼山山系に挟まれており、多くの山塊が存在し複雑な地形をなしている。従って昔から各地の形状や、住民の立場から見た位置づけにより多くの地名が付けられた。明治初期の地籍調査の折、付けられた小字名は次の通りである。
モミノキ・附舟・萩ノ元・萩平・下田・外手・田久保・ 田下・長畑・野ノ平・竹ノ迫・原平・峠・山口・藤原・ 平野・榎ノ元・中村・山ノ元・炭山・麦宮・赤水
小字名もそれぞれ由来があるが、地区民に語り継がれ た由来で判明したものを挙げてみる。
○山口…天山に登る入り口であり、昔は入会地の草切り場として利用された。その入り口に当たる。
○榎ノ元えのきのもと …天聖寺が戦国時代の享禄二年(一五二九)この地に移り、真言宗より曹洞宗に改めた頃から開 発された地区で当時は大木が繁茂していた。中にも桜の大木があり、それが目印となり地名が成立した。
○藤原…天川の開発者とされる天川土佐守藤原尚継以来、天川氏が支配してきた土地とされ、天川氏は代々藤原を姓としていた。 天川氏の居住地一帯を藤原と呼んだ。
○中 村…天川の中心と なる集落地である。
○田久保…天川地区を流れる河川の下流地区で、地名の由来はこの地に居 住した田久保氏によると考えられる。田久保氏の 祖先については、この地に建立されている「田久 保祖先碑」に依ると、この碑は大正一四年に田久 保同族中によって建立されている。碑文の内容は 田久保氏関係者に継承された口伝によるもので、 必ずしも正確とは言い難い。田久保氏祖先は南北 朝の建武三年(一三三六)筑前多々良浜合戦で足 利尊氏に敗れた阿蘇惟直が本地区小杵山周辺で土 着民の襲撃を受け自刃した。このころ天川を含む 五ヶ山地区は小城の千葉氏の所領であり、千葉氏 は足利尊氏に与していた。千葉氏の配下がこの地 区に駐在していたはずで、田久保氏の祖先も千葉 氏の配下である可能性があり阿蘇惟直を襲撃した と思われる。碑文は「田久保氏の祖は阿蘇惟直の 配下であり、田久保は惟直の遺言により亡骸を天 山に葬り、この地に土着した」ととれる文面に なっている。しかし、当時の状況から勘案すると、 田久保氏は千葉氏に属する土豪であったと考えら れる。

2 天川の俗称地名(田久保哲明調べより)
○字田久保地内俗称地名
・休場(いけば)…字田久保地区にある。江戸期ここは広川・平之への道筋に位置している。藩の役人 が巡視に来るときここで一休みしたことから名付けられた。
・七郎森…天山への登り口、字山口の山中にある。七郎社と称せられる土着の祠があった場所と考えられる。昭和三七年、当地区の千葉家関係者により「七郎大権現」の記堂が建立されている。
・陣の平…小杵山と通石山の間の林道平野線沿い通石山の山裾の、七山村との境界近くの字平野地内に位置する。南北朝期阿蘇惟直が土豪に襲われ交戦したと伝えられる。現在は杉山となっているが、天気の悪い日は人のうめき声、刀の音が聞こえてくるとの伝説がある。
・五人塚…陣の平の近くに位置する。通石山の山裾の丘で、阿蘇惟直の墓と伝えられる古い墓碑数基が
存在する。
・夜泣き坂…林道平野長山線の小杵山山腹の字平野地内の坂道をいう。阿蘇惟直の従者が戦の合間、夜の闇を利して谷間へ水を汲みに降りてきて討ち取られた。その嘆きが残ってか、夜中に人の泣き声 がするので夜泣き坂という。ここは風の吹き抜ける場所で、風の音がそうさせたとも思われる。

○字榎ノ元地内俗称地名
・井手前…井手(用水路)の取り口がある。
・辻…山口からの道が交差している。
・谷合…谷が合わさっている。
・婆田(ばばだ)…年貢ごまかしの役をはたした老婆に庄屋が与えた田。
·田 端…田圃のすぐ側の家。
・深迫…深い谷をいう。
・山犬神楽(やまいんかぐら)…多くの山犬が住み、吠えて騒ぐ様を「神楽のようだ」といったことから以後の地名。
・天川庄屋屋敷…榎ノ元東にある。天川土佐守藤原尚継以来の庄屋屋敷で、明治初期天川村役場となっ
た。
・山田重郎左衛門の墓…草場和則宅地内にある自然石の墓である。山田重郎左衛門は北辰一刀流の遣い手と伝えられる。生存の時代は不明。

○字中村地区俗称地名
・伊比口(いびんくち)…山口川と天川の合流地区は常時氾濫して困っていた。村の主だった人々が集まって堤防を造り、川に飛石を設け、対岸の田畑に通いやすくした。
・御坊坂…天聖寺開山の了禅和尚は回峰修行中、常に天川の峰峰を走り回った。天山入り口の山口から伊比口の間にある坂を、和尚が一気に駆け上っていたことから御坊坂という。
・吉撓(よしとう)…良い事のおきる峠という意味。
・車前…天川分校体育館横の天川に最初の水車が造られ、そのあたりを車前という。その後水車は天川地区に一一所造られていた。水車は主に穀類の精白に使われ、戦後は精米機に変わり姿を消した。
・凍無原(こうらんばる)…雪が凍らぬ場所をいう。ここは地下水が高く地温が下がりにくい。
・参禅溝…千葉久雄宅の天川の一部をいう。ここは武術棒術の稽古期間中、夕方ここで身を清めたという。
・高札場…元庄屋屋敷前の道の広場。江戸期、藩や幕府代官所の御触書・約定書などを高札で張り出したところ。

○字田久保地区俗称地名
・大東(ううひがし)…下方の川の水口から東に当たる地。
・化導撓(けどんたお)…撓とは峠のことで、天聖寺を開いた了禅は最初水口に庵を構えて回峰修行をしていた。昔、字中村から水口への道の途中に峠があり、了禅が通る道の峠という意味。水口には湧水があり、霊水として珍重されている。
・矢追手畑(やおいてはた)…逃げる武士が矢で倒れた場所と伝える。
・おかん渕…その昔、かんという女が身を投げたという。
・水口寺屋敷…字田久保と字外手の境目の田久保線沿いに位置する。天聖寺の前身臨済宗の道場があった。

厳木
一、名称の由来
国内の難解地名の中にはいる「厳木」という文字は、 どうして当てられたのだろうか。前に出版された『厳木の地名』に詳細が述べられているので、その一端を記しておく。
『松浦記集成』によれば、松浦川の西厳木に開 開 以来 という大楠があり、切り倒したときに川を越えて東に渡 りいまの厳木に及んだという。人間の尊厳さ同様の厳か しさがあったので、清らかなる木、「きよら木」が語源 だとされている。
また、巨木の話で上記の大楠は、相知楠村の楠神社に あった楠だったという。木の裏でなく木の幹の尖端を 「うれ(うら)」というので「木末木」となったともある。 『鼓溪筍記文政十丁亥』に「木末木」の説ありと記され ている。いずれも巨木・霊木崇拝による地名である。
また「延喜式」に記されている磐氷(いわひ)を厳木に比定する説もある。「あての木」(駅の裏上水道のところ)・「木挽 谷」の地名がある。
厳木の地名は南北朝時代の建武五年(一三三八)筑後の石垣山合戦の交名勘文に「討死 厳木八郎」の名がある。これが厳木の初見である。