そばの歴史

そばの歴史①

ソバは、遺跡から出土した植物死体を調べてみると、縄文時代にすでに栽培されていたと推定できるようです。

そして、文字に書かれた「そば」が最初に出てくるのは、続日本紀に記載された、養老六年(722年)の元正天皇の詔(右の画像)。

内容は、
「今年の夏は雨が降らず、稲の苗が稔らなかった。そこで全国の国司に命じて、百姓に、おそく実る稲や蕎麦(ソバ)及び大麦・小麦を植えさせ、その収穫を蓄え収めさせ、凶年に備えさせよ。」

大昔から、特に干害に対する救荒作物として欠かせないものだったわけですね。

この詔(みことのり)から次の詔にでてくるのは839年で、その後は記録が途絶えているらしいですが、平安時代末期(12世紀)には少しずつ現れ、鎌倉末期(13世紀)にはそばの記載が多くなり、年貢の対象にもなってくるようになったようです。

そして、そばの食文化が大きく花開いたのが江戸時代だったわけですね。

 

そばの歴史②

右の絵は、歌川広重の名所江戸百景「虎ノ門外あふひ坂」(葵坂あおいさか:現在の特許庁付近)。裸の男二人は葵坂下に祀ってある金比羅様へ願掛けの寒行の最中だ。屋台のそば屋が二軒(二台?)、坂の途中の屋台は終夜の営業が終わりその疲れを背中に漂わせながら帰途につくところでしょうか?

「そば」は初期「そば切り」と呼ばれており、「そば切り」が文献に最初に登場するのは、「慈性日記」(慈性は近江多賀大社の社僧)で1614年(慶長一九)。(1574年天正二長野の常勝寺文書の説もあります。)

当時は、飯の重湯や豆腐を加えて捏ねていたようです。つゆは味噌だれ。その後、朝鮮から渡来した僧が小麦を加えることを伝えたといわれています。

「二八そば」は18世紀のはじめに生まれた言葉で、その由来は大きく二つあります。ひとつはそばの値段説で、二かけ八で十六文というもの。現在価値に直すと200円くらいにおなります。抹茶の入った「茶そば」や卵が入った「卵きり」は200文だったらしいので2400円!と超贅沢だったようです。もうひとつが現在でも使っている、そば粉八割小麦粉二割の粉の混合比率説。

今のような醤油ベースのつゆを使うようになったのも江戸時代。ただし、醤油は上方から送られてくる「下り物」の代表格のひとつでお酒よりも高価だったようです。そのせいか、つけ汁がチョットしか付かなかったらしいです。今でも少ないところがありますが。
18世紀はじめに関東(銚子)でも醤油を造りはじめたか質が悪く「くだらない」の語源になったほど。でも19世紀には品質も向上し関東産の醤油が大量に江戸へ入るようになりました。

 

そばの歴史③

1702(元禄十五)年12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入りの前に集結したのはそば屋だったそうです。右の絵は、討ち入りの準備期間中、義士の一人がそば屋になり巷の情報を収集していたが、討ち入りに備えあばら家住まいでも槍の猛稽古を怠らずにやっているところへ、夜鷹そば売の仲間が3杯もそばの差し入れをしているところ。

1860年(万延元年)には、江戸市中に3700軒あまりのそば屋がありました。当時の江戸の人口は約100万人、現在の東京は1200万人で、そば屋は5000店ほど。いかに多くのそば屋があったかですね。
そして、なぜこれほど多くのそば屋があり、そば食文化が広まったのでしょうか?

 

理由は大きく3つ。

(1)外食の普及:田舎から独身者を中心に多くの人口流入があり、彼らに手軽な食を提供する外食産業(そば・うどん・寿司等)が盛んになった。蕎麦はファストフードのはしりだった。

(2)健康志向:当時精米した白米を食べるようになったため、ビタミンB1の欠乏による脚気(江戸患いといった)が流行っていたが、そばを食べている人はその脚気にかからないということで、こぞってそばを食べるようになった。

(3)グルメ:最初は屋台で売るそばで庶民が主な利用者だったが、そば食が広まり、キチンとお店を構えて高級なそばを出す処も出てきた。水戸黄門もそば好きだったと言われるように大名も好んで食べるようになった。

というわけで、現在も江戸前のそば食文化が脈々と受け継がれているのです。
でも、「外食・健康・グルメ」今も一緒ですね。

※参考
・そば学大全 俣野敏子著:平凡社新書
・日経ビジネス2005.12.12号P85漢方養生訓