月別アーカイブ: 2018年6月

走るための本三冊

かねてから走りたいと思っているのですが、行動に移せないでおります。

なにごともまずマニュアルから入る癖のあるボクはこの三冊を読んで、
今度こそと脳内の準備は完全に整っております。

しかし、身体は別であることは論をまたないのであります。

 

「ランニングする前に読む本」

ボクにとってのベストオブランニングマニュアルです。

BLUE BACKSだけあって理論と実践、生理学、メカニズムまで解説してあります。
・スロージョギング(にこにこペース)
・フォアフット着地
・スポーツカーと同じく軽量化が一番効果的
あたりがポイント。

 

「走って治すぞ、ガン闘病。」

口腔外科大学教授のガン闘病記ですが、市民マラソンが趣味のこの方はガン手術の二日前にもハーフマラソンを走ってしまうんです。でもその走りで鍛えた身体と精神力でガンと正面から闘うのです。ある意味カッコいい。患者になって初めて気づいたことや弱気になったことなども正直に書いてあります。

ボクも脱サラして2005年そば屋を開業して一か月目に血尿が出て受診したら膀胱ガンに罹患していて、その後2006年、2016年と三回ガン切除手術を経験しています。幸い内視鏡手術なので膀胱切除まではいっていませんが、妻の亡母が膀胱ガンで膀胱を摘出し膀胱ストーマ(人工的に外部に尿を溜めるパウチをつける)にしました。他人ごとではないのです。

この教授は大腸ガンや転移した肝臓ガン手術の後、人工肛門ストーマにしてパウチをつけたままフルマラソンを完走するのです!
いやいやボクだったら絶対無理とあきらめていたと思いますが、今その事実を知ったら逃げるわけは行きません。まして、内視鏡手術で済んでいるのだから、走らないわけにはいきませんよね、山本先生。

実はボクには、幼稚園から高校まで同級で、北大歯学部に入り現在佐賀市内で歯科医院をしている友人がいます。還暦同窓会で会った時に「そういえば、なして歯科医になったと?」と今更の質問をしたら、中学の時大学病院で口腔外科の先生を知り、自分もなりたいと思ってそれに向かって努力したそうです。中高大のころはそんなことはつゆ知らず、ボクは能天気な学生生活を送っていたのでした。

あと山本先生は「自らの生きざまを書き記してほしい。文字で記録されなければ存在そのものがなかったことになる。文献史学では史料に名前や事績が残らなければ不詳とされてしまう。文字で記録されなければ、人生や存在そのものがなかったとされてしまう。」と書いておられます。そしてこの本を書く時に担当者に「晒し者になってください。」と言われたそうです。もう一度ブログを書いてみようという気に大いにさせていただきました。

ストーマ等については「日本オストミー協会」をご参照ください。

 

「BORN TO RUN 走るために生まれた」

著者がランニングで足を痛めることが多く、なぜなのかを追求していくうちに、走るために生まれた人々「走る民族タラウマラ族」を見つけ出し、ベアフットランニングやトレイルランニングという自然な走る理論を発見し、人は走るために生まれたれたのだ、と確信するお話。

このサイトの解説がよかったです。

bear bore born アレ?裸足のベアはと辞書を引くとbareでした。

告白します。ボクもベアフットランナーだったんです。下の写真は高校三年の時の体育祭。運動場を使った2000mくらいの長距離走でトップを走っているボクは裸足なんです。結果は後の友達で陸上部だったボーヤに抜かれ二位でゴール。
昔のことでボクの27.5cmの足にあうシューズがなくやむなく裸足だったのですが。

蛮族の歴史

「イギリス、フランス、ロシア、中国といった国々は蛮族の侵入によって生まれた。」ではじまるこの本は、蛮族(侵略者)たちによってこの世界は形づくられたのだということをローマ帝国の滅亡から紐解いていきます。

最近世界史を再学習しているのですが、そういう見方があるのかと目からうろこですね。

ローマを滅ぼしたゴート族、そのゴート族を苦しめたフン族、ヨーロッパを席巻したゲルマン族、そのヨーロッパを震撼させたバイキング、そしてユーラシア大陸のほとんどを支配したチンギス・ハーンを祖とする最強の蛮族モンゴル人。

この本を読んでいると、北の方の寒くて気候が厳しい人達は獰猛というか残虐というか、人を殺すこと他人のものを掠奪することをなんとも思わないというか、それが正義(当たり前のこと)なのでしょうね。やはり風土が人を形づくるのでしょう。四季と豊かな水、大陸を隔てる海に恵まれたわが国はどんな人々を生んだのでしょうか?

そういえば和辻哲郎著「風土」を古本で買ったまままだ読んでいませんでした。さっそく読まなきゃ。

わが日本はモンゴルに二度攻められましたが、お天気にも恵まれ何とかしのぎました。むかしは異国人を南蛮人とよんでいましたし、もともとチャイナの中華思想によれば自分たち以外の四方は北荻・東夷・南蛮・西戎とさげすんでいたのです。

英語Barbarianの語源はギリシャ人が他民族を「聞きづらいわけのわからない言葉を話す者=バルバロイ」と呼んだことからはじまったとか。バルバルバルと聞こえたんでしょうね。

でもこの蛮族という定義そのものがおかしいわけで、ギリシャ人も他民族から見ればバルバロイですよね。

アマゾンプライムTVで「VIKINGS」と「The Bridge(北欧ミステリー)」を見ているのですが歴史的背景などをある程度分かってみるとまた趣がちがいます。

XL250S

就職してはじめて買ったバイクがXL250Sです。

実は大学5年(留年したのです)の時、まだ就職先は決まっていなかったのですがナナハンとこのXL250Sを買うことを決めていました。配属先がバイクに嫌というほど乗れる環境でしたのでナナハンはやめてXLだけにしました。

1978年に新発売されたのですが、フロントが23インチの大径タイヤで不整地の走破性に優れたいいバイクでしたね。

就職した夏に山中湖で合宿していた現役自動車部の陣中見舞いにこのバイクで行ったのですが、いい気になって湖畔を走っていて深い穴に落ちてしまい膝をけがしたことがありました。鈴鹿に戻って外科に行ったら麻酔なしで3~4針縫われる羽目になりました。その年の年末佐賀に帰省する時にも乗って帰りました。大阪から北九州まではフェリーですが。

当時は鈴鹿サーキットにモトクロス場があり、そこで早朝、不整地でのスライドコントロールやジャンプのテクニックを習得するための自主練習をしたものです。

またツーリングにも何回か行きました。下の写真は入社した年に職場の先輩たちと北陸方面へ林道主体のツーリングに行った時のショットです。

4年ぐらい乗って次はトライアルバイクに乗り替えました。
トライアルについては別の機会に書きます。

CB750P・CBX750P・VFR750P

前回白バイの話でしたから引続き同じテーマで。

白バイの訓練で使っていたのは
1977~CB750P、1988~CBX750P、1989~VFR750Pです。
入社したときはCB750Pを訓練で使っていましたが一番乗りやすかったのはVFR750Pですね。

三重県警交通機動隊発足20周年記念のテレカにその三台が写っています。
下からCB750P、CBX750P、VFR750P

全国白バイ安全運転競技大会は1969年第一回から鈴鹿サーキットで開催しており、警視庁や大阪府警、愛知県警、三重県警など全国の精鋭の白バイ隊員たちが鈴鹿へ特別訓練に来ていました。

ボクは二輪教習係へ異動し白バイ研修を担当することはありませんでしたが、オートバイのライディングテクニックは向上する必要はあります。そこで、特別訓練白バイ隊員たちと一緒によく走りました。おもにスラロームが多かったですね。
ボクの訓練は空いている時間に勝手に割り込むだけで強制されたものではなく、結構楽しくやっておりました。

下の動画は1991年第23回大会のスラローム競技(VFR750P)の模様です。

1988年にはまだ二輪教習係だったのですが、役職に就いたこともあり白バイ大会の主任審判(各競技ごとの審判責任者)に任命されました。主催は警察庁なんですが運営主体はホンダ安全運転普及本部・鈴鹿サーキット交通教育センターで双方から審判を出していたのです。
1988年第20回から1993年第25回大会まで6回主任審判を務めました。

白バイ大会の競技は、①車両点検 ②速度感覚・目測測定 ③バランス走行 ④オフロード走行 ⑤トライアル走行 ⑥スラローム走行 と白バイ実務に欠かせない技能を競うものでした。

鈴鹿では1992年第24回大会まで行われ、翌年第25回大会から茨城に新設された国営自動車安全運転中央研修所に移管されました。でも手伝いに行きましたけどね。

21回、22回、24回、25回大会のテレカ(今では知らない人も多いtelephone card!)
100台以上の白バイが鈴鹿サーキットのレーシングコースをパレードするシーンは壮観でしたよ。(21回がCBX750PであとはVFR750P)

そういえば、白バイだけでなくパトカーの訓練も行っていましたが、ボクの出身町の先輩が佐賀県警から派遣されてきたことがありました。その先輩の実家は酒屋さんで我が家の商売敵だったのです。まあ商売敵は嘘ですが、ご本人はまさかボクがこんなところにいるとは思ってもいなかったみたいです。

CB450P

1979年(株)ホンダランド(現在はモビリティランド)に入社し、約二カ月の研修の後、5月に鈴鹿サーキット交通教育センター(STEC)へ配属。

まずは見習いインストラクターとして指導方法と関連知識、運転技能の習得を実地で学ぶことに。

指導対象は白バイ・パトカー隊員、郵政赤バイク職員、電力会社や電電公社職員、本田テストライダー・ドライバー等バイクやクルマを仕事で使う方々の安全運転能力(技能・知識・態度)の向上をはかることが求められていました。かなり大変な仕事だぞ、と気を引き締めました。

とりあえずクルマの技能はなんとかなるかなと感じましたが、バイクは正直ほとんど経験がない、でもやらざるを得ない。先輩の指導でスラロームなど走り込みに励みました。

練習バイクは廃車寸前のCB450Pでしたが、低回転域でのトルクがなくて乗りにくくかなり手こずりました。上のWINGバッジはそのCB450Pのタンクについていたもの。廃車の際に許可を得ていただきました。今は店の本棚に飾ってあります。

砂利道走行や電柱を横にした一本橋を渡るなど難易度の高い訓練も多くあったのですが、先輩たちは難なくこなしているのでした。ということは人にできてボクにできないわけはないわけで、もうやるしかないですよね。

郵政赤バイや電力会社、テストライダー訓練など見習いとして担当し、その年の11月には初めての白バイ中堅指導者訓練を先輩の下で担当することになりました。訓練バイクはCB750Pです。いや~緊張しましたね。でも隊員の皆様は明らかに新米インストラクターであることが見え見えのボクにやさしく接してくださり励ましていただきました。(下はテストライダー訓練:見習いのころで旧施設)

当時の名刺。
「警察庁中部管区警察学校自動車技能専科 指導員」となんともいかめしい肩書が記されておりました。

またこの年1979年に新たな施設をオープンし、本格的な安全運転普及の最前線として活動を開始したのでありました。下はプレスリリースのコピーです。

でも年が明けたらオートバイ専門教習所の係への異動となったのです。ですから安全運転講習のインストラクターとしての現場での経験は半年足らずで終わったのでした。もう少し経験したかったですね。

鈴鹿サーキット交通教育センターのはじまり(Honda WebSite)
白バイ訓練から始まるHondaの交通安全運転教育「安全は人の心から」

教習所についてはまた別の機会に書きます。

バイアルスTL125

一浪して1974年に明治学院大学社会学部に入学しましたがすぐに体育会自動車部に入部、4年間部活動に邁進したのでありました。勉学はおざなりでしたが、自動車部時代の実績で前の会社に入社できたのですから、結果オーライ。でももっと勉強しておくべきだったことは間違いありません。

当然ながら自動車漬けなわけでオートバイや自転車とは全く縁がない時期だったのですが、唯一乗ったバイクが「ホンダ・バイアルスTL125」でした。

1973年に新発売され、トライアル走行に適したBIKEという意味からBIKE+TRIALS=BIALS(バイアルス)と名付けらました。

ホンダはこのバイクの販促とトライアルの普及を図るため「バイアルスパーク」というトライアルの基本を学べかつ楽しめる施設を、まず鈴鹿サーキットに作りました。また各地で試乗会を行ったようですが、多摩テックでも大学自動車部の部員を対象に試乗会を行いました。ボクはこの試乗会に参加してバイアルスに初めて乗ったのでした。丸太を乗り越えたり、曲がり切れないようなターンがあったり、急な坂を上ったり、なんてへんてこなことをするのだろう、というのが正直な感想。当然上手に乗りこなせませんでした。まあ面白くないとこともなかったのですがね。

卒業後、この鈴鹿サーキットや多摩テックを運営する会社に就職するとは、しかも配属された交通教育センター第二代所長がこのバイアルスの開発責任者でした。これもご縁があったのでしょう。さらにMFJ競技ライセンスを取得してトライアル競技をするとは!こちらについては別の機会で。

 

就職した1979年に初めて買った乗り物は自転車の方のバイク。
ミヤタのルマン・クールスというセミロードレーサー。当時は会社の寮住まいでしたが室内で保管しておりました。

 

40年ほど前の自転車ですが色を塗り変えハンドルやサドル、タイヤ等を変更して現在もまだ乗っています。

三人乗タンデム自転車

今回は自転車の方のバイクの話。

バイクといえば本来はBicycleの短縮形のBikeなのですが、
わが国ではAuto Bikeがオートバイやバイクと呼ばれるのが普通です。
Motorcycleが正式なのかな。


上の三人乗りタンデム自転車は高校3年の時クラブ(サッカー部)も引退し、結構暇だったので「会長」(真ん中)と「親分」(後)とボク(前)の三人で解体屋でスクラップになる自転車数台をただ同然で買ってきて、自動車整備業をやっていた会長のうちの工場でフレームを溶接しチェーンをつなげ、各部品を組み付けて作りました。

写真は完成した三人乗りタンデム自転車の試走で、危ないので念のため先頭のボクだけはヘルメット被り、工場からボクの家のすぐ近くの厳木駅の保線区の敷地まで走った後で記念に撮影したものです。

さすがに強度不足で走行中フレームがグニャグニャゆがみ、これ以上走行するのは危険である、と判断してこのプロジェクトはお終いになったのでありました。まあ発想は面白かったかな。

こんな時間があるのならもっと受験勉強をしておくべきだったことは申すまでもございません。でも会長は現役で第一志望大学建築学部に合格したのでありました。前の人は一浪、後の人は二浪で同じ大学社会学部へ入ったのでした。

あだ名:会長は中学時代生徒会長だったから、親分は小学校の時番を張っていたらしい・・・おそろしか~

そういえば、中学の生徒会長選挙で友人のKMT君の応援演説をしました。リンカーンの演説をもじって「生徒の、生徒による、生徒のための・・・」というようなことを話したような気がする。

ついでに、小学4~5年の時このKMT君の誕生会に御呼ばれしたのですが、母親がお土産に持って行かせたのはなんと「赤玉ポートワイン」!ノンアルではありません。オイオイいくら実家が酒屋だからと言って子供のお土産にワインかい!と突っ込みたくなりますよね。

 

(あとから補足)
前の「CB350」のところでわが故郷厳木ではじめてCB750に乗ったのは、という記載がありましたが、AZM君のコメントで一番は先輩のTKBさんで、二番がAZM君であったらしいです。
このAZM君とは中学三年の時クラスが同じだったこともあり、ほぼ毎朝一緒に登校しておりました。
現在はオーストラリア シドニーでトップクラスの日本料理レストラン「Azuma restaurant」のオーナーシェフです。シドニーを訪れた際にはぜひお立ち寄りください。といっておきながらボクはまだ行っておりません。

 

(さらにあとから補足)
スズキハスラー250に乗っていたFJT君(ぶーちゃん)ですがもう一台印象に残るバイクに乗っていました。
同じくスズキの「GT750」です。水冷2ストローク並列3気筒化738ccエンジン、最高出力67馬力。大きなラジエターが目立ち怪物みたいなバイクだなという印象でした。強烈な加速と最高速度だったらしい。ぶーちゃんからは白バイトとのバトルなど武勇伝を聞かされました。

CB350Four

高校三年の時、町内の浪瀬(なみせ)という地区のお祭りに高校の同級生十数名と同じ高校の同級生Cさんのお宅へ遊びに行った際に、同級生のうちの一人を後ろ乗せて行った記憶があります。急な坂道でもグングン上っていくそのパワーに驚きました。
このバイクは友人SSK君のものでした。2014年に高校の還暦同窓会で40数年ぶりに再会しました。

この年1972年に自動二輪車運転者(同乗者も)に対して、最高速度規制40㎞/hを超える道路でのヘルメットの着用が義務化(罰則等なし)されました。もちろんヘルメットは着用していましたよ。

1969年にナナハンの代名詞になった「CB750Four」が発売され大人気となりました。CB350はCB750のフォルムを残して小排気量にしたものでしたね。CB750は佐賀の片田舎でも発売後すぐに見ることができました。町内でいちばんに乗っていたのが小中学同級生のISD君、かなり小柄なおとなしい感じだったので意外で大変驚きました。ISD君とも中学の還暦同窓会で再会しました。

また、同じ高校で母の実家のある浜玉町平原から一人だけNYM君というバイク通学をしている同級生がいました。これもうらやましかったですね。バスはあるのですが便が悪いので特別に許可されていたようです。ボクはナナハンと思っていたのですがこれも高校還暦同窓会で再会した時に確認したらCB250だったそうです。

あと同じく中学の同級生で高校は違う工業高校へいっていたFJT君(中学時代はAZM君とボクと三人で学校の廊下でよく遊んでいました。三人とも結構体が大きく周りのみんなは迷惑だったかも?)がスズキハスラー250に乗っていました。一度乗せてほしくて何度か頼んだけど結局乗れなかったな~残念ながら早世してしまいました。合掌。

それなりにバイクには興味はあったのですが乗るのは「我が家のカブ(メイト)」がほとんどでした。当時は1980年代の空前のバイクブームは全く予想できませんでした。

ヤマハメイト

たぶん中学3年生の時、家の近くの農道で生まれて初めて自分で運転したのが「ヤマハメイト」。ゾクゾクする感覚を覚えています。

実家は佐賀の田舎町で酒屋を営んでいましたが、配達は自転車でした。祖母は反対していたようですが商売の効率化と商圏の拡大を図るため購入を決めたと聞いた記憶があります。メイトU5(50cc)が発売されたのが1965年7月で、12月に販売されたU7(73cc)を買ったようです。ボクは1954年生まれで11才小学5年の時に父が運転する買ってすぐのメイトの後ろに載せてもらって母の実家まで行った思い出があります。

その後高校1年の1970年に16才になったらすぐに実家の手伝いをするためにオートバイ免許を取りました。高校があった唐津市神田(こうだ)の「唐津自動二輪専門学校」に数日通いました。今でいう公認の自動車学校ではなく練習だけするところで、実地試験は県警の試験官が出向いてきて試験をするシステムでした。

社会人になってから知ったのですが、この唐津自動二輪専門学校は高校の同級生S君の実家が経営していて本人も教えていたということでした。

当時の二輪の免許は「原付」と「自動二輪」の二種類でした。
自動二輪の免許があれば排気量は関係なくすべての二輪車に乗ることができました。
まあいわゆる昔の免許ってやつですね。
1972年に「小型二輪(125cc以下)」と「自動二輪(制限なし)」に別れました。
弟はこの小型免許を取得したのでした。

いずれにしても鈴鹿サーキットに就職して自動二輪専門指定自動車学校の立ち上げを担当し、技能指導員から始まって副校長、さらには設置者(経営責任者)になるとはね。

ちなみに我が家ではヤマハメイトのことを「カブ」と呼んでおりました。
メーカーなどは関係なくこの種の形状のバイクはすべて「カブ」だったのでした。
ベトナムでバイクのことを「ホンダ」というのと同じですね。

P.S.「乗ってる、乗ってる、乗ってる、乗ってる~♬」の歌を見つけました。