明治学院大学体育会自動車部は私の人生で大切で貴重な時間であり経験でした。誕生から現在までの自分史です。
1976年山中湖合宿での写真、トラックの上に座っているのが私です。
私は、1954年11月16日 佐賀県東松浦郡(現在唐津市)厳木町で、酒屋(現在は廃業)の長男として生まれ、高校まで唐津で過ごしました。
大学入学前から自動車部に入ることを決めておりました。というのも、進学雑誌で早稲田大学自動車部の女性がクルマでアジア大陸を冒険する記事を読み、もうこれは絶対早稲田自動車部だと勝手に決めてしまったのでした。でも現実は厳しく一浪しても早稲田は手が届かず、1974年4月 明治学院大学社会学部入学、もちろん体育会自動車部へ入部。学籍番号は「74S105」でした。web検索でこの記事を見つけました。大賀愛子さん(早稲田大学商学部卒、早大自動車部OG、アジアハイウェイ女子走破隊隊員)がその女性です。
大学二年の冬に富士スピードウェイで開催された全関東大学対抗ジムカーナ大会で個人部門第三位。それまで賞状やトロフィーなどには縁がなかったので大変うれしいことでした。
1976年三年次に府中自動車運転免許試験場で開催された全日本学生自動車運転競技選手権大会三種戦の部で優勝、翌1977年四年次は全関東で三位、全日本で三位の成績を収め、その年の体育会優秀選手賞をいただきました。
1977年冬、明治学院大学自動車部として初めてダートトライアル競技会を山中湖で開催しました。当時はラリーが事故の多発や環境問題などで開催が困難になり、その代替としてダートトライアルに移行していった時代でした。
63年度 末村重昭先輩(当時OB会幹事長)に大会会長をお願いしました。
マイクを持っているのが私です。
その時の表彰式の写真です。
1977年(S52)刊行の明学体育会報は学院創立100周年および体育会発足25周年記念号で、部創設のいきさつやエピソード等を含んだ各部紹介がメインテーマでした。
自動車部紹介文は当時主将だった私の役目で下記のような内容を書きました。
中にも書いていますが1970年代は我が明学自動車部は競技成績では全盛期でした。
自 動 車 部
自動車部が創立されて、 二十余年、四半世紀の年月を数える歴史を持つ。
創立当時はまだまだ自動車というものは一部の人々のいわゆるステータスシンボルであった。しかし、モータリゼーションの発達はめざましいもので、現在では車なしの生活は考えられないまでになっている。それと並行して、自動車の持つメリットと相反する諸問題が顕存化してきた。
まず、自動車のまきちらす排気ガスによる大気汚染問題、オイルシィックを契機にしたエネルギー問題、交通事故、多すぎる車による交通問題等なんと数多くの問題をかかえていることか。
われわれ自動車部は、これらの多数の問題点をもつ自動車を活動の手段として使用しているのである。また、こよなく車を愛する者の集まりである。車社会が大きく変化してきたとともに自動車部も大きく変わってきた。
創立当時、まだもの珍しいものであった車。車に乗りたい、 免許を取りたいと思って入部する部員も多かった。が現在では、モータリゼーションの発達が車を日常化したために、車に対する興味が半減し、わざわざ自動車部に入ってまで車に接しようとしなくなったためか、部員数が減少の傾向にある。
自動車部の活動における車とは、スポーツの手段なのである。サッカーのボール、 テニスのラケット等と同じなのである。サッカーの選手がボールを自在に操るように、われわれは自動車を自分の意志どおりに操ることに 無類の喜びを感じるのである。
一般に行われているモータースポーツいうと、レースやラリー等を思う人が多いと思う。昨年、自動車レースの最高峰であるF 1グランプリが日本で初めて開催された。しかし、学生スポーツとしての自動車部の行う競技は、一般のモータースポーツとはまた趣を異にしている。
フィギアと呼ばれる運転技術を競うものがある。これが体育会自動車部というものを可能としている最も大きなものである。
車というものは、走っている時はハンドルはあまり重く感じないものであるが、 一時止まってハンドルをきろうとしてもなかなかきれるものではない。フィギアとは、人の歩くくらいの速度で車を動かすため、相当の体力と持久力が必要となってくる。また、車が通るか通らないかくらいの狭くて複雑なコースを脱輪したり、接輪したりしないで、しかも決められた時間内に他よりも早くゴールしなければ勝てないのである。
この競技に勝利を収めるべく、われわれ自動車部は、車のことを知り、体力をつけ、精神力を養う努力を重ねている。
本 1977 年度全関東フィギア大会において、わが明学は男子準優勝、女子優勝、個人三位という素晴らしい成績を収めた。
先に車を乗りこなすには車を知ることが必要であると述べ たが、車を知ること、すなわち整備技術の修得である。それは単に知識だけではなく、古い部の車をまともに動かずために必要欠くべからざるものである。そして日頃 の整備技術を競うものとして、整備大会というものがある。
次に耐久走行大会というもの、ダートトライアルというものがある。簡単に 説明すると、耐久走行とは、富士スピードウェイを使用し、レース化するのを防ぐためサーキットを一周する上限時間を設け、コースを五〇周くらい走行して義務づけられたタイヤ交換やプラグ交換等のピット作業と、部車の耐久性を競うものである。ダートトライアルとは、舗装されていない悪路にコースを設定してより早く走る競技である。一般の走行とちがい、横すべりやジャソプ、あるいは運転を一つ誤まれば横転するようなこともある。より高度なドライビングテクニックと経験が必要となる。
以上、説明した四つの競技が全関東総合成績に関係してくるものである。
優勝すると三十点、以下二位二十九点、三位二十八点とポイントが与えられ、四つの総合点で全関東の 総合成績を決定する。
我自動車部は、1972 年度に男女共総合優勝し、昨 1976 年度も男子が総合優勝、学内でも体育会の最優秀クラブ賞を二度もいただいた。この栄誉と創立以来、諸先輩方の築いて下さった伝統を今後とも発展させ、自動車部を存続させていかなければならない。
また、先にあげた車の持つ反社会的な面に対しても決して目をそらさず、自動車部員として恥ずかしくない考えとそれに基づく行動をとることが大事であると思う。
今年で七年目になる交通遺児育英募金や、交通問題に関する調査、シートベ ルトキャンペーンなど学連とともに協力して、積極的にそれらの運動に参加している。
また一般ドライバーの模範となるべく、日常の運転においても自分は自動車部員なのだという気持ちを忘れずに努力しているつもりである。そして自動車部員が模範的交通人であることで、交通社会に一つの示唆を与えることができればと思うのである。
最近、暴走族と呼ばれる一部の若者が車を使用して乱行を働いているというのを見るのは、自動車を正しく使い、ルールを守りスポーツとして自動車を愛する者にとっては、心痛いことである。
まして我国において、 モータースポーツはまだまだ一般の人々の理解を得ているとは思えない。一つのスポーツとして理解してもらいたいと思う。
最後に、一つの目的に向かって部員一同、一致団結し、なおかつ自己をみつめ鍛え励むことは、他の体育会各部と同じである。
学院創立 100 周年を迎かえ、体育会全体としてこれを機にさらに発展していくために、共に努力を惜しまないつもりである。
一年留年したくらいですから、学業成績は推して知るべしでしたが、自動車部での競技成績や活動実績が評価されたのか、本田技研工業株式会社の子会社で鈴鹿サーキットや多摩テックを運営していた株式会社ホンダランド(現在は株式会社モビリティランド)へ入社、赴任地は鈴鹿サーキットで、配属先は鈴鹿サーキット交通教育センターでした。
鈴鹿サーキットは日本初の高速道路が敷設される1963年よりも1年早い1962年9月に完成しており、ハイウェー時代を迎え高速走行テクニックの必要性から、1964年に中部近畿管区警察本部の依頼で白バイ・パトカーの運転技術指導を始たのが交通教育センターの前身でした。
入社して初めて渡された名刺には「警察庁中部管区警察学校自動車技能専科指導官」というややいかつい肩書が記載されておりました。
在社26年のうち、21年は交通教育センター関連の仕事でしたが、途中5年間はモータースポーツの営業関連でF1等のチケット販売管理や広告宣伝の仕事に携わりました。
交通教育センターでは、オートバイ専門教習所の立ち上げから運営・管理、NSXオーナーズミーティングなどのドライビングスクールの新規企画運営、全国の教習所指導員に対する高速運転講習の企画運営、子供たちを対象にしたレーシングスクールの企画運営、管理監督者になってからは人・モノ・金の管理を担当しました。
自動車雑誌のNSXフィエスタ開催についてのインタビュー記事
鈴鹿サーキットで2001年から2020年まで「全国自動車教習所 教習指導員安全運転競技大会」が行われていていました。その四輪競技の中に「フィギア」が含まれております。この大会は当時鈴鹿サーキット交通教育センター課長を務めていた私の提案でフィギアを競技に入れました。正式にはフィギュアなのですが私が「フィギア」と表記したためそのままになっております。競技はかなり簡略化しておりますがBOXでの確認は入れてあります。残念ながらコロナ禍もあり、2020年をもって一時休止となっております。
新米インストラクターからはじまり教習係係長・安全運転講習係係長・新規企画担当主任・課長と順調に進み、2003年5月に48歳で部門のトップである鈴鹿サーキット交通教育センター所長(部長)を拝任し、新しい安全運転教育に向け志を新たにしていたのですが、2005年3月栃木の「ツインリンクもてぎアクティブセーフティトレーニングパーク所長」への異動内示をうけました。
当時5人の子供があり、一番上が高校3年生、一番下が双子の兄妹で幼稚園に入ったばかりでした。当然単身赴任にならざるを得ず、それまでの会社・組織志向から、家族志向への転換をはかるべきだと、内示があったその日に退職を決意。早期退職制度の適用を申請し受理され、3月末日をもって退職することとなったのでした。会社人としてはそれなりに全うできたと自負しております。
家族、特に妻と二人で可能な生業として選んだのが「手打そば屋」でした。
仕事柄東京への出張も多く、そば屋巡りには好都合で、食べるだけでは飽き足らずそば打ちも始めており、当時脱サラそば屋のブームもあり、そば屋開業のノウハウもある程度は把握理解できておりました。ただ自分がそば屋になるなどはつゆほども思っておらず、ただそばを楽しむレベルだったのですが、にわかにそば屋になることを検討し、シミュレーションした結果、可能であると判断しました。
2005年8月に「築地そばアカデミー」開業総合科を受講し、同年10月に当時日本一のそば打ち名人と言われていた高橋邦弘さんの 「達磨そば教室」を受講、退職から約8か月後の2005年11月16日「蕎麦空」(そばくう)を開業しました。それまでクルマやバイクのハンドルを握っておりましたが、握るものをそば打ちの麺棒に変えました。
三重テレビ「とってもわくどき セカンドステージ」2008年11月18日放送でそば屋に転職したいきさつを紹介していただきました。
年収が年商に変わるというかなり厳しい状況でしたが、妻の協力と子供たちの手伝いの家族の力で何とか持ちこたえ、2011年2月には借店舗から自宅を改装した古民家風の店舗へと移転し、現在に至っております。
雑誌や地元TVメディアなどで取り上げていただくことも多く、お客様やお取引先にも恵まれ、2019年5月発行のミシュランガイド愛知・岐阜・三重2019 特別版に弊店はミシュランプレート(星は付かないがミシュランの基準を満たした料理で適正な食材で作られているという評価)として掲載されました。そば屋としても、なんとか及第点をもらえたのかなと思っています。