■1979.4.1:(株)ホンダランド(現在: ホンダモビリティランド株式会社)入社
■1979.5.10:交通教育課講習係に配属。安全運転講習会のインストラクターとして先ず見習い。 最初に覚えたのが「ネンオシャチエブクトウバシメ」オートバイの運行前点検の語呂合わせだった。 ちなみに、燃料・オイル・車輪・チェーン・ブレーキ・クラッチ・灯火類・バッテリー・締付。
先輩インストラクターのもと新米インストラクターとして、電力会社・電電公社・郵政局・製薬会社等の 安全運転講習会や白バイ・パトカーの訓練を担当した。当時の名刺には「鈴鹿サーキット交通教育センター実技指導員」 「警察庁中部管区警察学校自動車技能専科指導官」とややいかめしい肩書きが記載されていた。
■1980.1月:オートバイの専門教習所の公認を取るため指定前教習を開始していた「鈴鹿モーターサイクルスクール」へ異動。
1981年12.25二輪技能指導員資格取得。県の運転免許試験場で教習生を受検させ、ある一定人数の合格率が95%を継続しなければならず、かなり苦労したが 1982年3.17にやっと三重県公安委員会指定二輪専門教習所として発足した。
■1985.1.25:二輪技能検定員資格取得。
■1985.4.1:社内資格制度チーフ認定。管理監督者の第一歩を踏み出す。
■1989.4.1:社内資格制度主任認定、同時にモーターサイクルスクール係係長と教習所副校長を拝任。
※丁度この頃オートバイブームが巻き起こり、年間卒業者数は2,000名に達し、鈴鹿8時間耐久オートバイレースには16万人もの動員があった。
■1991.2.3:交通教育課主任として新規プログラム開発・新規需要開拓を拝命。
これまで国から委託されていた白バイ・パトカーの訓練が1991年5月開所の特殊法人「安全運転中央研修所」に移管されることとなり、 1990年ですべて終了。連続開催してきた「白バイ大会」も1992年24回大会を最後に鈴鹿から茨城の中央研修所に移った。白バイ大会では主任審判を務めた。
白バイ・パトカーの訓練は鈴鹿サーキット交通教育センター(以下STEC:suzukacircuit traffic education center)の動員・売上の 重要な割合を占めていたが、これを機に新たな需要の開拓を開始した。
■1991.6.30:第一回NSXオーナーズミーティング開催。特別講師として黒澤元治氏を擁し世界でもトップレベルの性能を誇るNSXのドライビングスクールに 企画者として参画した。NSXは2005年12月に生産終了したが、NSX owner’s meetingとNSX Fiestaは今も継続して開催されている。
■1992.1.20:第一回REV SPEED Driving school開催。カーマガジン「レブスピード」主催のドライビングスクールを日下部保雄さんとともに企画した。 日下部さんから大学の自動車部時代八王子のサマーランドでダートトライアルを教わったが、仕事でご一緒できるとは想像だにしなかった。
■1992年4.1:SRS・J(suzukacircuit racing school・junior)発足。小学生・中学生を対象にした本格的なバイクのレーシングスクールだ。 世界に通用するトップレーシングライダーの育成を目的に設立。初年度は17名の入校があった。Hondaのスーパーバイクワークスライダー だった(2007年)清成龍一は第一期生。レーシングスクールを STECが担当すること自体が異例だが、”育成”=educationと云う観点からの経営陣の判断だったのだろう。企画から軌道に乗るまでSRS・Jを担当した。
■1992.9.24-27:全国指定自動車教習所協会連合会主催「第一回高速教習指導員講習」開催。高速教習の教習カリキュラムへの正式導入を前に、全国の指定教習所 指導員を対象にした高速走行の理論と実技を鈴鹿サーキット使って本格的研修を開催。企画と初期講習実施を担当。現在も継続して開催している。
※1985-1992の間が一番仕事が面白かった時期かもしれない。いい意味で怖いもの知らずだった。立場的には監督者だったが管理監督者的業務はあまり無く、 様々な新しい分野にチャレンジできたし、なんと言っても若かった。
■1993.6.1:交通教育課講習係係長拝任。一気に「人」「物」「金」の管理的立場に。このあたりから微妙に仕事が面白くなくなってくる。
■1996.4.1:モータースポーツ営業2課課長拝任。
今度は組合員を離脱し管理職。ますます管理的立場が強化される。仕事の面白さは反比例していく。
主な仕事は、レースチケット販売管理と中部・関西地区のスポンサー及びTV局対応。いろいろ勉強にはなりましたが、結局馴染めなかった。 鈴鹿8耐やF1GPもバブルが弾け往時の勢いは無く、右肩下がりの大変苦しい時期だった。毎週営業会議でレースチケットの販売状況の報告をするのだが 明るい話題を提供したことが無かった記憶がある。でも、最終券売予測はかなり悲観的だと指摘されながらも結構的確だった。チケットが売れないのは 販売努力が不足しているのかそれともコンテンツ自体に魅力が無いのかよく悩んだ。この時期真剣に退職を考えたこともあったことを今だから(2007)明かすが。 管理職の悲哀だ。
■2000.12.1:交通教育課課長拝任。勝手知ったる古巣へ全く違和感なくカムバック。さすがに落ち着いて仕事ができた。
■2001.7.20:油断大敵、仕事中に痛恨の失敗。バイクで転倒し全治三ヶ月の左脛骨骨折で自宅療養。9.25復職。慙愧に耐えないという言葉を実感した。
■2003.5.1:STEC所長拝任。24歳で入社して初めて配属された部門のトップに48歳で就任、感慨深いものがあったが、感慨に耽っている場合ではなく、 組織の活性化と体質強化が急務だった。入社した年にSTECは施設を新設したが、すでに四半世紀が経過しており、新しいハード・ソフトの導入に向け動き出した。
■2005.3.11:「ツインリンクもてぎアクティブセーフティトレーニングパーク所長」への異動内示。その日に退職を決意。早期退職制度「ニューライフサポートプラン」 の適用を申請し受理される。
■2005.3.31:(株)鈴鹿サーキットランド退社。